第6章 彼と私は離婚することになった
江口式は少し考え、結局なにも言わなかった。
二人の間に、もう可能性なんて残っていない。真実がどうだったかなんて、今となっては重要じゃない。
少なくとも彼は目を覚ました。ちゃんと彼女の目の前に、無事に立っている。江口馨の悪ふざけなんかじゃない。
それで十分だった。
江口式は半歩引き、胸の奥の疑問をすべて飲み込み、踵を返して外へ出ようとする。ちょうどそのとき、帰宅したばかりの江口信年と鉢合わせた。
「式?」
娘の姿に、江口信年はあからさまに驚く。
だが江口式は相手をする気にもなれず、見なかったことにして、そのまま肩をすり抜けた。
保坂臣の存在に気づいていない江口信年は、背中へ向かって怒鳴りつける。
「止まれ! 父親を見ても挨拶のひとつもないのか。どういう躾だ。だから林田景司にも好かれないんだ」
江口式は足を止め、冷えた顔で振り返った。
江口信年は追い打ちをかけるように問いただす。
「聞いたぞ。林田景司が最近、ある女とやけに親しくしてるって。本当なのか?」
だから呼び止めたのか。噂を耳にしたから。
江口式は思う。離婚の話は、どうせ遅かれ早かれこの男の耳にも入る。なら、今ここで言ってしまえばいい。
「知りません。でも、私たちは離婚する予定です。彼が誰と親しくしていようと、もう私には関係ありません」
その言葉を、江口信年は「捨てられた娘の強がり」だと受け取ったらしい。
「離婚はだめだ」
林田景司はこの三年間、江口信年を義父としてまともに扱ったことなどなかった。離婚すれば、林田景司はまず間違いなく江口家への投資を引き上げる。
「江口式、おまえはもっと物分かりよく、従順になれ。何としても林田景司の心を取り戻せ。離婚なんて許さん」
これが、父親だった。
娘が離婚すると聞いても、傷ついたかどうかなど気にしない。考えるのは自分の利益だけ。
「江口社長」
江口式はもう「お父さん」とは呼ばなかった。
「この三年の会社の伸びを見れば、仮に林田景司が出資を引き揚げたとしても、すぐ立ち行かなくなるほどではないはずです」
そして、淡々と言い切る。
「私はすでに一度、あなたの会社を危機から救いました。それでも正常に経営できないなら、単純にあなたの能力不足です。いっそ会社は私に渡してください。私がやります。忘れないで。母は生前、自分の株を全部私名義にしています。私には経営に関わる権利があります」
言い終えると、江口信年と吉田詩乃母娘の呆然とした顔を置き去りにして、江口式はそのまま背を向けた。
門を出て、外の空気を吸い込んだ瞬間、こわばっていた心臓がようやく少しだけ緩む。
気分は最悪だった。
ただ、あてもなく歩いた。
気づけば、祖父母の家の前に立っていた。この世でたった二人、自分を愛してくれる家族のもとへ。
江口式が着いたとき、祖父母はちょうど夕食の支度を終えたところだった。彼女の姿を見て、二人ともぱっと顔を明るくする。
祖父は手を取って席に座らせ、祖母は慌てて茶碗と箸を用意し、ご飯をよそってくれた。
「帰ってくるなら、次は前もって言いなさい。好きなおかず、用意できるからね。今日はたまたま、おばあちゃんがあんたの好きな太刀魚を揚げたの。ほら、食べてみなさい」
そう言って、太刀魚をひと切れ、江口式の茶碗へ乗せる。
ひと口かじった瞬間、懐かしい味が舌を打ち、鼻の奥がつんと熱くなった。泣きそうになるのをこらえ、俯いたまま白米をかき込む。
顔を上げたときには、精一杯明るい笑顔を作っていた。
「おいしい。おじいちゃん、おばあちゃん、今夜は帰らない。しばらく家のご飯、たくさん食べたいな」
その頃。
夕食どき、林田景司が帰宅すると、使用人が料理を並べた。だが食器は一人分しか出ていない。
林田景司は意外そうに尋ねる。
「江口式は家にいないのか?」
帰る前に、使用人へ夕食の準備をするよう連絡は入れていた。
表向きは使用人への指示。だが実際には、江口式への知らせでもある。
彼は家で江口式と食卓を囲むことは滅多にない。けれど、そんな稀な機会を江口式はいつも大事にし、自ら台所に立って二人分の食器を並べ、帰りを待っていた。
「旦那様、奥様は昨日お出かけになってから、まだお戻りではありません」
外泊?
親しい友人はほとんどいない。江口家とも関係は悪い。おそらく祖父母の家だろう。
林田景司は、江口式が自分への当てつけでそうしているのだと考えた。だから、帰るつもりがあるのかをわざわざ電話で確かめる気にもならない。
そのうち、現実を理解すれば自分から戻ってくるはずだ。
そう思いながら席に着き、目の前の清蒸の鱸に箸を伸ばす。
江口式の蒸し魚はうまい。いつもつい多く食べてしまうほどだ。
だが一口含んだ瞬間、思考が途切れ、眉がひそめられる。
江口式の味とは、比べるまでもない。
食欲が失せ、そのまま箸を置いた。
傍らの使用人が、おそるおそる声をかける。
「旦那様……何か問題でもございましたでしょうか?」
「この魚、どうしてこんなに生臭い。身もしまりが足りない」
「そんな……」
言いかけて、使用人ははっとする。
「たぶん、旦那様が奥様の味に慣れていらっしゃるからかと……奥様の作るたれは、私には再現できませんので……」
それでも、自分の腕前でここまでまずくなるはずがない。
使用人は、江口式が帰らないせいで林田景司の機嫌が悪く、自分に当たっているのだろうと判断した。心の中では江口式への不満が膨らむ。
人妻のくせに、家を空けて外泊するなんて。なんてだらしない女だろう。
「できないなら覚えろ。できないままなら辞めろ」
林田景司は食事も取らず、そのまま部屋へ戻った。
その夜、主寝室で一人きりの眠りにつく。
珍しく、なかなか寝つけなかった。
江口式が祖父母の家に長居できるはずがない。祖父に怪しまれる。数日もすれば、きっと戻ってくる。
林田景司はそう思っていた。
だが五日後になっても、帰ってきたのは江口式ではなく、祖母からの電話だった。
「使用人から聞いたわ。江口式、ここ数日ずっと実家にいるんですってね。私が出した漢方も飲んでいないそうじゃないの。そんなことで、いつ子どもができるっていうの。すぐに呼び戻しなさい」
オフィスの机に向かったまま、林田景司はその話を聞き、こめかみを押さえた。
連日ろくに眠れていないせいで気分も悪い。それでも辛うじて声を抑え、応じる。
「祖父の体調が悪いなら、何日か面倒を見るのも不自然じゃありません。薬は戻ってきたら飲ませます」
「どうしても人手が足りないなら、介護人を雇えばいいでしょう。私は知りません。今日中に帰らせなさい」
祖母の態度は強硬だった。
「それから、秋実があの子の炊く鶏スープを飲みたがってるの。明日戻るように言いなさい。材料はもう用意しておくわ」
江口式を呼び戻すということは、自分から折れるようなものだ。そうなれば次から次へと、離婚だの家出だの、ますますつけ上がるかもしれない。
これ以上、勝手な真似を許すつもりはない。
「秋実が何か食べたいなら使用人に作らせればいい。普段から江口式に敬意も払わず、使い走りみたいに扱ってるくせに。……それでは、祖母上。仕事があります。数日したらまた」
言い切って通話を切った。
ちょうどそのとき、秘書がノックして昼食を運び入れてきた。弁当箱を開け、料理を一つずつ目の前に並べていく。
林田景司は無言で唇を結ぶ。
以前は、江口式がほとんど毎日のように弁当を届けてきた。彩りよく整えられ、見た目も味も申し分ないものだった。
忙しいときは手もつけず、秘書に捨てさせることもあった。
だがここ数日は、昼休みを取れる日にも食べているのは秘書が用意した弁当ばかり。
目の前の料理を見つめたまま、林田景司は箸を取ろうとしない。顔は冷えきっていた。
秘書はその表情をうかがいながら、戸惑って声を出す。
「林田社長、……お口に合いませんでしたか?」
おかしい。どれも林田社長が普段好むものばかりのはずなのに。
林田景司は我に返ったように言う。
「いや。下がってくれ」
秘書が退出したあと、ようやく箸を持つ。ゆっくり食べながらも、何かが足りない感覚だけが残った。だがそれが何なのか、自分でもうまく言葉にできない。
一方、江口式は祖父母の家で一週間を過ごし、久しぶりに穏やかな気持ちでいた。
けれど突然、強い眩暈に襲われ、寝室で危うく倒れかける。幸い祖父母には気づかれなかった。
心配をかけないため、適当な理由をつけて家を出る。
嫁いだ身で長く実家に泊まるのも気が引けるだろうと、祖父母も無理には引き留めなかった。
家を出た江口式は、その足で病院へ向かった。
前回、主治医には家族も交えて治療方針を相談するよう言われていた。だがそのときは林田景司と連絡がつかなかった。
もう一度、医師と話す必要がある。
病院のロビーに入り、エレベーターを待つあいだ、ふと視界に見覚えのある三つの影が映った。
江口式の目が、そこで止まる。
