第7章 江口式、お前は本当に腹黒いな
林田景司と林田秋実は松本寧音を真ん中にかばうように挟み、三人並んで、ゆっくりと出口へ向かって歩いていた。どうやら診察を終えたばかりらしい。
「寧音お姉ちゃん、これから仕事を頑張るのはいいけど、ちゃんと食べなきゃだめだよ。倒れたとき、私ほんとに死ぬほどびっくりしたんだから。兄さんだってすっごく心配してたよね?」
林田景司は片手に女物のバッグを提げ、もう片方の腕に掛けていたショールを松本寧音へ差し出した。
「外は冷える。羽織れ」
江口式の視線は、そのバッグに吸い寄せられた。落ち着いたデザインで、林田秋実の趣味ではない。松本寧音のものだろう。
林田グループの社長ともあろう男が、女のバッグを持つこともある。
結婚して三年。江口式は一度たりとも、そんな扱いを受けたことがない。
松本寧音がショールを肩に掛ける。三人の背中は少しずつ遠ざかり、江口式の視界はじわりと滲んだ。次の瞬間、膝が折れる。
掌が冷たい床に触れたときには、目の前は暗く沈み、体は鉛みたいに重くて、指一本動かせなかった。
耳鳴りがごうっと頭を満たす。それでも、人が集まってくる気配だけはわかる。
「もしもし、奥様が倒れられました。至急、病院へ――」
奥様。
結婚を隠したいと言ったのは林田景司で、式も挙げなかった。それでも入籍の日、江口式は彼の番号の登録名を「あなた」に変えていた。
たぶん、自分のスマホから病院が林田景司へ連絡したのだろう。
江口式は比較的すぐに意識を取り戻した。病院がカルテを確認すると、主治医もほどなく病室へ駆けつけてくる。
病室で医師は、あらためて家族を呼んで治療方針を相談するよう勧めた。
開頭手術をするか、保存的治療を選ぶか。
ここへ来る前から、江口式の答えは決まっていた。
「先生、保存療法を選びます。手術は受けません」
手術のリスクは大きすぎる。
手術台に上がったまま、二度と目を覚まさないかもしれない。助かっても、脳神経に障害が残る可能性がある。最悪、自分で生活できなくなることだってある。
祖父母は高齢で、祖父には心臓の病もある。これ以上、負担を背負わせたくなかった。
医師は彼女の年齢を思い、なおも考え直すよう説得した。だが江口式の意思は揺るがない。結局、医師は患者の選択を尊重し、処方のため病室を出ようとする。
その矢先だった。
医師が二歩ほど進んだところで、林田景司と林田秋実が病室に入ってきて、行く手を塞いだ。
「……彼女はどうした」
林田景司に問われ、医師は反射的に江口式へ視線を向けた。本人の許可なく病状を話すわけにはいかない。
林田景司が来るとは思っていなかった江口式は、目をわずかに見開き、伝えるべきか迷った。
だがその前に、林田秋実が一歩前へ出て腕を組み、顎を上げる。
「見た感じ、全然平気じゃん。電話で聞いたほど重そうにも見えないし。ねえ、また嘘? 兄さん呼びつけたくて、わざと倒れたとか?」
江口式は思わず林田景司を見た。
彼は眉を寄せ、冷えた顔のまま、ひどく面倒そうにしている。その表情が答えだったのだろう。江口式は胸の奥で苦く笑い、適当な言葉を並べた。
「低血糖で……ふらっとしただけ。ごめんなさい。わざわざ来てもらって」
医師は察したように何も言わず、病室を出ていった。
林田景司の視線がその背を追い、振り返ったとき――江口式はベッドを降り、彼の目の前でスマホの連絡先を開いていた。
そして「あなた」を、「林田景司」に書き換える。
画面を見せたまま、江口式は言う。
「もう二度と、こういうことはありません。だから帰ってください」
林田景司は探るような目で彼女を見た。
だが林田秋実は食い下がる。
「寧音お姉ちゃんも低血糖で倒れて、私たちが病院に連れてきたんだよ。ちょうど帰ろうとしてたところに、今度はあんたの電話。自分も低血糖とか、そんな偶然ある?」
二秒ほど考えたあと、ぱっと顔を上げた。
「あ、わかった。尾けてたんだ。私たちが寧音お姉ちゃんの世話してるの見てムカついて、嫉妬して、わざと倒れたフリして兄さん呼び戻したんでしょ」
そして吐き捨てる。
「江口式、ほんと腹黒い」
江口式にはもう、言い返す気力もない。ただ、林田景司がこの筋の通らない言いがかりくらい止めてくれると――どこかで期待していた。
けれど、彼は止めなかった。
それだけで十分だった。
「林田景司、あなたもそう思ってるの?」
「……もう気が済んだなら、家に戻れ」
林田景司は正面から答えず、淡々と言い放つ。
「おまえが帰るかどうかは俺にはどうでもいい。だが祖母は、薬を飲まないことに本気で怒ってる。拗らせれば、最後に困るのはおまえだ」
まだ、拗ねているだけだと思っている。
離婚を口にして家を出たのも、松本寧音に嫉妬して倒れたふりをしたのも、全部――自分の注意を引くための計算だと。
江口式は唇を結ぶ。
「私はもう戻りません。あなた……」
いつ、離婚の手続きをしてくれるの。
その続きは、林田秋実に遮られた。
「戻らなくていいよ、そのままずっと帰ってこなきゃいい。兄さん、行こ。寧音お姉ちゃん、まだ車で待ってる」
二人が病室を出て車へ戻る途中、林田景司のもとへ看護師から電話が入った。
本当は松本寧音も病室まで来たがっていたが、体が弱っているのを理由に彼が車で待たせていた。林田秋実は、完全に面白半分でついてきただけだ。
江口式に大したことがないのなら、松本寧音を長く待たせるわけにはいかない――そんな判断なのだろう。
林田景司は最後に一度だけ江口式を見たが、それ以上は何も言わず、踵を返して早足で去っていった。
林田秋実も江口式を睨みつけ、すぐ後を追う。
江口式は、自嘲するように首を振った。
松本寧音のことだけは大事で、少しでも待たせたくない。
それに比べて、自分に関することはいつも後回しだ。
医師から薬を受け取り、江口式は家に戻って休んだ。
夕方、友人の後藤由紀に電話をかける。しばらく言葉を選んでから、江口式は静かに尋ねた。
「この前話してたSOロボットの開発プロジェクト……まだ、私も入れる?」
「えっ、ついに仕事に戻る気になったの? でも、妊活してるんじゃなかったの?」
「離婚するの」
江口式の声は驚くほど落ち着いていた。冗談でも勢いでもないと察したのだろう、後藤由紀の口調が一気に真剣になる。
「じゃあ……林田景司って、ほんとに松本寧音とできてたの? あんたを捨てて、寧音と結婚するつもり?」
言った直後、電話では話しきれないと気づいたらしい。後藤由紀は慌てて店の名前と場所を告げ、会って話そうと言い出した。
一時間後。
MKカラオケの個室のドアを開けると、後藤由紀はすでに酒を用意して待っていた。
「ほら! まず一杯目。闇から抜け出した記念!」
江口式はグラスを手にしたまま、少し困ったように眉を寄せる。
だが後藤由紀はすっかり自分のペースだった。
「松本寧音がロボットデザインの大会で一位? だから何よ。式ちゃんと比べたら全然だし。林田景司が寧音を選んで式ちゃん捨てるなんて、ほんと見る目ない。落ち込む必要なんてないからね。いつか絶対、あいつ後悔するわ」
江口式と林田景司が結婚していることを知る人間は少ない。後藤由紀はその数少ない一人だ。
留学から戻った松本寧音を林田景司が特別扱いしているという話も、前から聞いていたのだろう。江口式が突然「離婚する」と言えば、林田景司が松本寧音のために彼女を捨てたのだと考えてしまうのも無理はない。
江口式は薄く笑い、静かに訂正した。
「二人が本当に付き合ってるかどうかは、私にもわからない。離婚を言い出したのは私。だから……彼に後悔してほしいとも思ってないの」
後藤由紀は目を丸くしたあと、ぱっと顔を輝かせる。
「それなら最高! やっと目が覚めたってことじゃん! 式ちゃんみたいな才能が、専業主婦で埋もれるなんてもったいなさすぎる。ロボットの世界で、またバリバリ輝かなきゃ」
江口式は笑いながらも、そこに少しだけ苦さを滲ませた。
本当は最初から、ずっと家にいるつもりなんてなかったのだから。
