第3章
この三か月――毎日自分を抱いたその身体が、直前まで別の女の中にあったのだと思うだけで、香椎早希は吐き気を覚えた。
雲雀京介は、その問いに答えなかった。ただ通話を切った。
早希はもう一度、目を閉じる。
しばらくして、夜気をまとった気配が背後からそっと抱き寄せてきた。
ひやりとしたキスが、額に落ちる。
「早希……愛してる」
風にさらわれそうなほど、かすかな声。
まるで、雲雀京介の愛情そのものだった。
――心が揺れたのだ。
早希には、はっきり分かった。
八年もそばにいた。
雲雀京介のことなら、嫌というほど分かる。
もし少しも情が動いていないなら、竹内結菜の問いをああして黙殺したりしない。
まして、ごまかすように自分へ「愛してる」だなんて、言うはずがない。
こんなにも苦い「愛してる」は、ほかにない。
胸の奥にかろうじて残っていた柔らかさが、その瞬間きれいに消えた。
あの二人が寄り添うつもりなら――こちらも、もう容赦しない。
気持ちの重石が外れたせいか、その夜の早希は驚くほど深く眠れた。
ただし、もう以前のように雲雀京介の腕の中へ身体を預けることはなかった。
背を向けて眠る。
そのあいだには、触れられないほど広い隔たりが横たわっていた。
かつては温もりだった腕も、今はただ気味が悪く、拒みたかった。
翌朝、早希が目を開けたときには、外はすっかり明るくなっていた。
やわらかな陽射しが窓から差し込み、思わず目を細める。
そっと腹部に手を当てる。
まだ小さな命を包むそこへ触れた途端、早希の瞳にやさしい色が宿った。
身支度を整えながら、ふと思う。
雲雀京介がいないだけで、こんなにも息がしやすいなんて。
だが朝食を取ろうと階下へ降りた瞬間、その心地よさはあっさり壊された。
ダイニングには、場違いな二人の姿があった。
早希はわずかに眉をひそめる。
物音に気づいて顔を上げた雲雀京介は、白いネグリジェ姿で長い髪を下ろした早希を見て、一瞬目を奪われた。
竹内結菜にはほとんど視線もくれず、彼は立ち上がると、やさしく妻の腰を抱く。
「起きたか」
「今日は君の親友に付き添ってもらおうと思ってる。買い物でもしてきたらいい。こっちは片づけたら、あとで俺も合流する」
何があっても、いちばん愛しているのは香椎早希だけ。
――彼は、そう信じている。
早希は少し首を傾けるふりをして竹内結菜へ視線を流し、その拍子に雲雀京介が落とそうとしたキスを自然に避けた。
結菜は隠しきれなかった。
目の奥に沈んだ毒と嫉妬が、不意打ちのように早希へぶつかってくる。
慌てて取り繕う親友を見て、早希は淡く笑った。
気づかないふりをする。
まだ、その時じゃない。
二人には渡してやりたい贈り物がある。
「今日はお願いね、結菜」
仲睦まじい夫婦を演じるその光景に、竹内結菜は手元のナイフとフォークをぎゅっと握りしめた。
「そんな、全然。雲雀社長って本当に早希のこと大事にしてるよね。わざわざ私を呼んでくれるなんて」
笑っていればいい。
いつか必ず、香椎早希が笑えなくなる日が来る。
そんな悪意を、彼女は器用にまぶたの奥へ押し込めていた。
だって今の二人は、表向き甘く見えるだけ。
あの短信を見て、香椎早希が本当に何も知らないなんて――ありえない。
結菜の唇に、得意げな笑みがのぼる。
テーブルの下で、ストッキング越しのつま先が男の脚をなぞり上がった。
雲雀京介の身体がぴくりと強張る。
反射的な熱が、制御もなく込み上げた。
彼は結菜をちらりと睨んだ。
――何を考えてる。
早希が目の前にいるんだぞ。
それでも雲雀京介の視線は、おのずと早希へ向かう。
何も気づかず、結菜と話しているように見える妻を確認して、胸の内に背徳めいた高揚がじわりと広がった。
脚に絡む感触は、ますます露骨になる。
結菜の視線もまた、挑むように熱を帯びていく。
雲雀京介の筋肉が、ぎり、と硬く張った。
早希はその変化を見逃さない。
竹内結菜が何をしているのかまでは見えなくても、察するには十分だった。
カタン、と早希は箸を置いた。
思いのほか大きく響いた音に、雲雀京介は我に返る。
ごまかすように、すぐさま気遣う声を出した。
「どうした。口に合わなかったか?」
「急に思い出したの」
早希は何でもない顔で言う。
「お義父さまのお誕生日の席で着るドレス、今から仕立てても間に合うのかなって」
わざと。
竹内結菜の前で、その話題を出す。
案の定、結菜の瞳に計算の色がさっと走った。
一方で雲雀京介は、胸をなで下ろしたように息をつき、早希の手を軽く握る。
「そんなことで悩んでたのか」
「もう『T』には話を通してある。君は試着しに行くだけでいい」
あまりにも甘い物言い。
女なら誰でも羨むような、惜しみない扱いだった。
「ありがとうございます、あなた」
早希は蜜のように甘い声でそう返し、隠しきれない竹内結菜の嫉妬を見て、ほほえんだ。
――残念だけど。
自分が欲しいのは、男の寵愛なんかじゃない。
バッグを手に取り、早希は竹内結菜と笑いながらショッピングモールへ向かった。
「早希ってほんと羨ましい。あんないい旦那さまがいて」
早希は幸せそうに髪へ触れ、甘やかな笑みを浮かべる。
「そんなことないよ。あの人、昔からああいう人だし」
「でも、結菜の彼氏さんだって優しいんでしょ? 見てると分かるよ。今の結菜、すごく垢抜けてるもの」
そう言って、早希は結菜を上から下までゆっくり眺めた。
以前の、どこか田舎臭くて世慣れない雰囲気はもうない。
金をかけられて磨かれた女の華やかさがある。
頬はほのかに色づき、満たされている女の艶がにじむ。
目元にも、甘えるような媚が浮いていた。
「そうなの。うちの彼、毎晩べったりでさ。ほんと困っちゃう」
得意げなその顔が、早希には滑稽でしかない。
腐った男を宝物みたいに抱えていたいなら、好きにすればいい。
「それはよかった。ちゃんと自分の幸せを見つけたんだね」
「じゃあ、いい報告を待ってる」
――待つわけがない。
自分がいる限り、竹内結菜が雲雀夫人になることはない。
予想どおり、その一言で結菜の顔色がさっと曇った。
噛み締めた歯の奥から、悔しさが滲む。
どれだけ誘っても。
どれだけ煽っても。
ベッドの上でどんな顔をしても。
雲雀京介は、一度だって彼女に未来を口にしなかった。
与えたのはせいぜい仕事と引き換えの恩恵だけ。
なのに、香椎早希はすべてを持っている。
どうして。
早希はバッグを持ち直した。
「試着、行きましょ」
竹内結菜が肩書きを欲しがるなら、いちばん手っ取り早いのは雲雀家当主の前へ出ることだ。
自分は三年子どもができず、雲雀家からの風当たりも強い。
道筋は示してやった。
あとは、結菜がどう動くか。
『T』のオートクチュールは、普通の人間にはまず手が届かない。
まして個人向けのフルオーダーなど、なおさらだ。
だが、雲雀家なら話は別だった。
豪奢なフィッティングルーム。
整然と並ぶドレスの数々。
竹内結菜では借りることすら叶わない一着一着が、当然のように香椎早希の前へ差し出されている。
結菜が雲雀京介を奪おうと躍起になる理由も、よく分かる。
情がなくても構わない。
彼からこぼれる利益だけで、無名の端役女優から今の位置まで這い上がれたのだから。
「雲雀奥さま、雲雀さまからサイズを伺っております。すべてお直し済みですので、お好きなものをご試着ください」
販売員が満面の笑みで頭を下げる。
手元の表を広げ、媚びるように早希の前へ差し出した。
「こちらが雲雀さまからいただいたデータです。こんな細かいことまでわざわざご本人がご確認されるなんて……本当に愛されていらっしゃいますね」
早希は何気なく視線を落とし、ふっと眉を上げる。
「へえ……?」
そこに記されていたのは、自分のスリーサイズではなかった。
その数値を見つめたまま、笑うでも怒るでもなく、早希は竹内結菜へ視線を向ける。
結菜は驚いたように口元を押さえ、無垢を装った。
「えっ、早希……雲雀社長、間違えたのかな。これ、私のサイズ……」
言いかけて、しまったというように、わざとらしく言葉を切った。
