紹介
結婚して3年、街中が「誰もが羨むおしどり夫婦」だと信じていた。
けれどあの日、夫の雲雀京介が放ったのは、あまりにも冷酷な言葉だった。
個室の扉のすぐ外で、香椎早希は妊娠を告げる診断書を握りしめたまま立ち尽くしていた。
彼の躍進のために泥をすすり、過酷な不妊治療の注射で身体をアザだらけにしながら、二人の愛の結晶を待ち望んでいたというのに――。その裏で、夫は彼女の親友と肌を重ねていたのだ。
香椎早希は静かにお腹の新しい命を愛おしみ、そして決意する。
3年間、一度も触れなかった連絡先へ、彼女は冷徹にダイヤルした。
「私を事故で死なせて。あの男が人生で一番幸せな瞬間に、最愛のすべてを失う絶望を与えてあげる」
――その後、妻の遺品を抱きしめて狂気と絶望にのたうち回る京介。
しかし数年後、華やかなチャリティガラの会場で、彼は死んだはずの妻の姿を目撃する。
真紅のドレスに身を包んだ彼女は、雲雀京介など足元にも及ばない、国をも動かす最高峰の大富豪の腕に抱かれ、この上なく甘やかに、極上に甘やかされていた。
今さら泣いて縋る元夫を冷たく見下し、彼女は二度と、過去を振り返らない。
チャプター 1
「――ご主人が今、どこにいるか知りたい?」
「御蘭亭へいらして。あなたが見たいもの、見せてあげる」
受話器の向こうは、若い女の声だった。どこか、耳に残っている。
香椎早希は眉をひそめ、通話の切れたスマホの画面を見つめたまま、胸の奥にざらりとした不安が広がっていくのを感じた。
今日は、雲雀京介と結婚して三周年の記念日。――そして、自分が妊娠していると分かった日でもある。
本当なら、胸いっぱいの喜びを抱えたまま彼の帰りを待っていた。玄関の音がした瞬間に、真っ先に伝えるつもりだったのに。
結婚三年。ようやく、ふたりの子どもができたのだから。
けれど待っていたのは、雲雀京介からの申し訳なさそうな電話だった。
「会社で急に海外絡みの会議が入ってさ。今夜、遅くなる」
たった一本の電話――。
香椎早希は目の底の冷たさを押し殺し、まだ膨らみもしない腹をそっと撫でた。
雲雀京介が遅くなるのは、これが初めてじゃない。
三か月前から、彼は理由を変えては家に帰らなくなった。女の直感が、ずっと告げていた。おかしい、と。
それでも早希は信じた。
結婚三年、誰もが知っている。雲雀京介は妻を溺愛している、と。
早希が甘いものを食べたいと言えば、南区から北区まで車を飛ばし、深夜に焼きたてのパンを買ってくる。
早希を掌の上に載せるみたいに扱い、面倒ごとから遠ざけてくれた。
そんな雲雀京介が、浮気なんてするはずがない。
――そう思っていた。あの場所へ行くまでは。
御蘭亭。H市でも指折りの会員制プライベートクラブ。
最上階の豪奢な個室には、酒と金の匂いが濃く漂っていた。
香椎早希は扉の外に立ち、内側から漏れてくる調子外れの笑い声を聞いた。
「京介兄さん、今回の小さな芸能人、相当かわいがってるじゃないっすか。デカい資源まで突っ込んだって聞きましたよ。三か月、付き合いまくったでしょ?」
雲雀京介の低い声が、気怠げな笑いを帯びて返る。
「まあな。――早希の親友だから」
「へえ、親友っすか。義姉さんの代わりに、京介兄さんの相手までしてくれて」
「京介兄さん、両取りの幸せじゃん。普通じゃ味わえねえ!」
個室の中に、ねっとりした笑いが弾けた。
香椎早希は指を握りしめたまま、整った瞳を見開き、動けなくなった。
芸能人。親友。
それに当てはまるのは――大学からの親友、竹内結菜しかいない。
つい二日前も、頬を上気させた結菜が来て、愚痴をこぼしていた。
「新しい彼氏がさ、ほんと粘着質で。首も胸元も痕だらけ。人前出られないんだけど」
そのとき早希は、何て言った?
――粘着質なのは愛情表現だよ、って。
自分と京介が熱に浮かされていた頃、身体じゅうが彼の痕で埋まっていたから。
親友がいい相手を見つけたのだと喜び、結菜の目に一瞬よぎった得意と軽蔑を、見落としていた。
あの痕は。
香椎早希がいちばん愛した夫が、彼女につけたものだった。
なんて――滑稽だろう。
「もうすぐ来るからな。お前ら、これ以上デカい声出したら殺すぞ?」
聞き慣れた雲雀京介の笑い声。早希は掌に爪を立て、息を殺して聞き続けた。
「ここでどんだけ騒いでも平気っすよ。義姉さんの耳に入らなきゃ!」
皆分かっているのだ。雲雀京介がどれほど香椎早希を大事にしているか。
そして外の女なんて、男にとってはつまみ食いみたいなものだと。親友? 遊びだ、遊び。
ドアの隙間から覗くと、主座に座る男がグラスの赤ワインを一口含み、眉目をゆるくほどいていた。
かつて香椎早希に永遠を誓った男。
「それな。口は固くしろよ」
「うちの奥さんは賢いから、ずっと俺を信じてる。余計なことは聞かない」
脚を組み、気ままな姿勢。
彼にとって女は二種類。香椎早希と、それ以外の遊び相手。
早希に知られさえしなければ、他の女は刺激と欲の処理に使うだけ。
「でも京介兄さん、遊ぶのはいいけど、子ども作っちゃダメっすよ」誰かが半分冗談めかして言った。「後がめんどい」
雲雀京介は低く笑った。
「大丈夫。そこは分かってる」
「それに……」声が少し落ちる。上から目線の寛容さが滲む。
「早希は身体が弱い。どうしても子ども欲しけりゃ、外で誰かに産ませてもいいだろ」
その瞬間、香椎早希は雷に打たれたように硬直した。
たしかに体は弱い。
だが雲雀京介が子ども好きだから、早希はどれだけ努力した?
生活を整え、妊活にいい食事を続け、負担がかかると分かっていても注射まで打った。
「俺たちの愛で生まれる子は、世界一いい子だ」
そう言った彼の言葉が欲しくて。
なのに結局は――外で産ませればいい、だなんて。
香椎早希は口角を引き上げようとした。
笑えない。泣けない。
目の奥は乾ききって、痛みで全身が震える。
どうやって家まで戻ったのか、覚えていない。
闇の中に座り込み、膝を抱え、顔を埋めた。
ふたりがいつからそうなったのか。考えるのも怖い。
結菜が仕事で行き詰まり、京介に「助けて」と頼んだとき? それとももっと前から?
頭がじんじんと膨らむ。
ドアが開いた。
顔を上げると、雲雀京介が帰ってきた。
「早希、電気つけてないの?」
彼は慎重にベッドサイドのランプを点ける。
早希は目を細め、光に慣れようとした。
そのとき見えた。
雲雀京介の首元に薄い痕。
そして、服に残る女物の香水の匂い。
最初から最後まで――自分が信じすぎたのだ。夫も、親友も。
だから気づけなかった。
ふたりは隠す気すらなくなっていた。
早希が黙っているのを、京介は記念日で拗ねたのだと思ったらしい。柔らかく宥める。
「俺が悪い。会議なんて早く断って、ちゃんと帰るべきだった。怒ってる? もう怒らないで」
情に厚い夫を装う姿が、急につまらなく見えた。
流れない涙みたいに。
早希は首を振り、いつものように唇を尖らせた。
「次はちゃんと覚えててね。今回は許してあげる!」
可愛らしい仕草はいつも通り。雲雀京介は違和感に気づかず、ほっと息をついた。
「分かった。じゃあ俺、先にシャワー浴びてくる。あとで一緒にいよう」
頭をくしゃりと撫で、浴室へ。
扉が閉まった瞬間、香椎早希の目がすっと冷えた。
スマホを取り出し、久しくかけていなかった番号を呼び出す。
「……もしもし。流産手術の記録、一本。あと――交通事故も」
浴室から水音が響く。
香椎早希の声は、風にほどけるほど軽い。
「裏切りを選んだなら……私も、あなたたちを引きずり落とす」
雲雀京介は早希を大切に囲っていた。家事もさせず、仕事もさせず。
だから皆忘れている。
雲雀京介が今の立場を手にするまでが、順風満帆だったわけじゃないことを。
五年、香椎早希は彼の隣で支え続けた。人脈を育て、心を掴み、権力を奪い取る――その一歩一歩に、彼女がいた。
けれど京介が甘やかしすぎたせいで、周囲が覚えているのは「大切にされる雲雀奥さん」だけ。
香椎早希という女そのものではない。
浴室の水音が止まらないまま、スマホがぶるりと震えた。
さっきの番号から、メッセージ。
【香椎早希。雲雀京介が今夜は結婚記念日だって言うから、私の上でいつもより本気だった。赤ちゃん欲しいって。ねえ、私……もう妊娠してると思う?】
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