第5章
雲雀京介は込み上げる高揚を抑えきれず、思わず立ち上がった。
――自分が、父親になる?
香椎早希と三年願っても授からなかった子が、こんな形で現れるなんて。
ガタン、と大きな物音。
目を閉じて願いごとをしていた香椎早希が、不思議そうに瞼を上げた。
雲雀京介はいつも感情を表に出さない。彼女の前でも、こんなふうに動揺したことなんてない。いったい何が――。
その視線を受けても、京介は構っていられなかった。
スマホを握りしめ、焦った声で言う。
「早希、急に案件が入った。今から会社に行く。埋め合わせはまた今度」
そう言い終えると、香椎早希を見もしないままコートを掴み、慌ただしく出ていった。
香椎早希はその背中を見送り、目の前でまだ揺れている蝋燭の火を見つめた。
くすり、と笑う。
雲雀京介。
あなた、もう少しマシな嘘すらつけないのね。
スマホの画面が光った。
【雲雀奥さん、私妊娠した。今夜、京介兄さんはあなたと私、どっちを選ぶと思う?】
――竹内結菜が妊娠した。だからあんなに取り乱したのか。
香椎早希は弱い灯りに照らされながら、そっと下腹に触れる。
そして目を閉じ、静かに願った。
雲雀京介。
あなたには、愛するものを失う痛みを味わってほしい。裏切りの苦さも、骨の髄まで。
そして私とこの子は、永遠に幸せになる。
「……ふう」
細く息を吐き、香椎早希は蝋燭を吹き消した。
それはまるで、行き着いた先のない結婚を消す仕草みたいだった。
唯一の光が消え、家は一気に闇へ沈む。
香椎早希は窓辺に腰を下ろし、月光をただ肩に受けた。
結婚記念日、そしてその翌日。
香椎早希は、八年寄り添った愛人を失った。
その夜、雲雀京介は帰ってこなかった。
香椎早希は待たない。ケーキはリビングに放り出したまま、眠りについた。
捨てる男のために、自分と子どもを傷つけるつもりはない。
翌朝も普段通りに起き、車で病院へ向かう。
初めての妊婦健診だ。
香椎早希は診療記録を隠しはしない。ただ、人目につきにくい場所の病院を選び、堂々と一通りの検査を受けた。
今ごろ雲雀京介は、竹内結菜のそばにいるのだろうか。
自分の交通事故の遺体を前にして、さらに今日、彼女がひとりで健診に来ていた記録を掘り当てたら――どんな顔をする?
少し、楽しみだった。
初めての健診は手間が多い。それでも香椎早希は丁寧に、根気よくこなした。
これは雲雀京介の子じゃない。自分だけの子。だからこそ責任を持つ。
すべて終えたころには、三時間が過ぎていた。
腕時計を一瞥し、人の少ない階段室へ。
香椎早希は、かつてブロックした番号に電話をかけた。
「……もしもし」
相手は、しばらく沈黙した。長すぎて、香椎早希は自分のスマホが壊れたのかと疑うほどだった。
画面の『通話中』を二度見して、眉を寄せる。
「私、香椎早希」
ようやく名乗ると、受話器の向こうで小さな鼻笑いが落ちた。
「知ってるよ。香椎さん、俺と縁切ったんじゃなかった? どうした、捨てられた?」
軽薄で、ふざけた声音。聞いているだけで腹が立つ。
――やっぱりこの男だ。ひと言で人を苛つかせる。
香椎早希は盛大に白目を剥く。
「おかげさまで」
否定もしない嫌味を投げると、相手はなぜかまた黙り込んだ。
社長のくせに、スマホ代もないのかと疑いたくなる沈黙。
だが今は、手が必要だ。
香椎早希は声を整える。
「前に言ってた提携、受ける」
電話の向こう。
男は地上88階の窓辺に立ち、眼下の街を見下ろしながら眉を上げた。
以前、この女は彼の頬を平手打ちして『夢を見るな』と言ったはずだ。
それが今さら、承諾?
黒い瞳に嵐が宿る。
「同意するのかしないのか。はっきりして」
短気で乱暴な声が耳を刺す。
男は低く笑った。電波越しでも艶のある響き。
「香椎さん。――じゃあ、話はまとまったってことでいい?」
香椎早希はようやく胸の息を落とす。
「ただし条件があるの……」
通話を切ったとき、掌がしっとり濡れていることに気づいた。
暗くなった画面を見つめ、大きく息を吐く。
この男と条件を交渉するのは、心臓に悪い。
雲雀京介とは違う。
彼こそが本物の支配者で、紛れもない野心家。目を合わせた瞬間、全部見透かされる気がする。
それでも――雲雀グループに対抗できるのは、あるいは雲雀家を丸ごと押さえつけられるのは、彼だけだ。
虎の穴でも、今はそれが最善だった。
階段室を出ようと足を踏み出した、その瞬間。
病院ロビーに、ひとりの気品ある婦人が目に入った。
顔を認めた途端、香椎早希の瞳孔がきゅっと縮む。
雲雀京介の母親――。
どうして、こんな辺鄙な小さな病院に?
