第6章
松井誠美は自分を上流階級だと思い込んでいて、こんな場末の病院に足を踏み入れることなんて、まずない。
くしゃみをひとつしただけでも、市中心部の高級私立病院へ直行。専用のVIP対応を受けるのが当たり前――そんな女だ。
香椎早希はそっと目を伏せ、手にしていた検査票を素早くバッグのいちばん奥へ滑り込ませた。財布と雑多な小物で上から押さえつけ、二度と見えないようにする。
理由が何であれ、ここに来た目的が何であれ――子どものことだけは、絶対に知られてはいけない。
少なくとも、今はまだ。
この子は、私だけの宝物だ。こんな女の前で、欠片も見せるわけにはいかない。
香椎早希は表情を整え、別の出口へ抜けようと踵を返す――その背中に、聞き慣れた刺々しい声が突き刺さった。
「香椎早希?」
足が止まる。もう逃げられない。
香椎早希はゆっくりと振り向き、上品で、けれどどこか距離のある微笑を浮かべた。
「……偶然ですね」
「偶然?」
松井誠美はヒールを鳴らしながら近づき、頭のてっぺんから爪先まで値踏みするように眺め回す。視線には露骨な不信と、遠慮のない品定め。
「どうしてこんな所にいるの」
松井誠美にとって香椎早希は、手段を使って雲雀家に入り込んだ女だ。息子に取り入って玉の輿に乗った――そう思い込んでいる。
会えば粗探し。会えば難癖。どう転んでも気に入らない。
以前の香椎早希なら、傷ついて、必死に機嫌を取っていた。
でも今は、ただ可笑しい。
自分のしてきたことを一度だって正しく見ようとしない人間に、どうしてこちらが息を殺して接しなきゃいけないのか。
――ばかばかしい。
「ちょっと体調が悪くて」
香椎早希は薄く笑った。昔と変わらない声色。けれど、その瞳にあるのは淡い無関心だけ。
松井誠美のわずかな緊張を見逃さず、香椎早希はさらりと切り返す。
「それより、お義母さまこそ。いつもの主治医は市中心部の病院でしたよね? どうしてこちらに?」
松井誠美の顔が、ぴくりと引きつった。
――言えるわけがない。
昨夜、雲雀京介に呼び出されて、竹内結菜が妊娠したと告げられたこと。
今日ここで健診を受けさせ、結菜の機嫌を取れと命じられたこと。
そして何より、「香椎早希にだけは絶対に知られるな」と釘を刺されたこと。
本当は今すぐにでも香椎早希を追い出したい。けれど息子に逆らえば、自分の暮らしが立ち行かなくなる。生活の金は、京介頼みだ。
松井誠美は香椎早希の顔を見た。腹立たしいほど美しい顔。
この顔ができることなんて、男をたぶらかすことくらいじゃないのか。
結婚して三年。子どもひとり産めないくせに、雲雀奥さんの座だけはしっかり占めている。
それに比べて結菜はどうだ。あの子はもう、雲雀家の孫を腹に宿している。
そう思うと、松井誠美の底気はすっと戻った。
言い訳ができないなら、得意の攻撃で押し潰すだけ。
「私が何しに来たか、あなたに関係ある?」
松井誠美は声を吊り上げた。甲高い声がロビーに響き、周囲の視線が集まる。
「それより香椎早希、あんたね。雲雀家に嫁いで何年? 三年よ、三年! お腹はどうなってるの、何の音沙汰もないじゃない!」
「外でどれだけ笑われてると思ってるの? 雲雀家が! 京介が!」
「雲雀家はね、嫁を飾りで迎えたんじゃない。跡取りを産ませるためよ! それなのに、あんたは居座って何もしないくせに、私に口を出すの?」
毒のある言葉が、容赦なく突き刺さる。
けれど香椎早希は、もう昔みたいに黙って傷つかない。
ただ、ふっと笑ってみせた。
松井誠美が欲しがる長孫なら――自分にもいる。
ただしもう、その子は雲雀家とは無縁だ。
「何がおかしいの!?」
松井誠美はそれを後ろめたさだと勘違いし、さらに畳みかける。
「言っとくけど、雲雀家の我慢にも限界がある! 産めないなら雲雀奥さんの座を明け渡しなさい! 京介の邪魔をするんじゃないよ!」
侮辱が、人の行き交う病院のロビーにきっぱりと反響した。
香椎早希は瞳の奥の嘲りを隠し、顔を上げる。口を開こうとした、そのとき――。
「母さん、終わった。帰ろう」
疲れと苛立ちを含んだ男の声が背後から届いた。
香椎早希はゆっくり振り返る。
少し離れた場所から、雲雀京介が早足でこちらへ向かってきた。眉間には深い皺。
そしてその隣で、彼に大事そうに支えられているのは――竹内結菜だった。
