第2章
部下に命じるかのような弘光の口調に、私は骨の髄まで凍りつくような寒気を覚えた。
七年間、彼の身の回りの世話を焼き続けてきたというのに、彼にとってそれはもはや当たり前のこととなっていたのだ。
「私って、あなたがいつでも呼び出せて、いつでもクビにできるただの家政婦なわけ?」
返事を待つことなく、私は通話を切った。
電話の翌日、弘光は私のアトリエの前に姿を現した。
その手には、綺麗にラッピングされたジュエリーボックスが握られている。
「亜由美、プレゼントを持ってきたぞ」
弘光は私の目の前に箱を置き、少し得意げな声を出した。
「美乃里がわざわざ付き合ってくれて、これを選んだんだ。もっと若々しいデザインのほうが、お前がその……地味に見えないだろうってな」
箱を開けてみる。
中に入っていたのは、蛍光ピンクのプラスチック製ネックレスだった。
いかにも美乃里らしいセンス。
悪趣味で、子供っぽくて、あからさまに『女』を強調している。
私は一言も発することなく、それを掴み取ると窓の外へ投げ捨てた。
「亜由美!」
弘光は目を丸くした。
「頭でもおかしくなったのか?」
彼を見据える私の声は、霜のように冷え切っていた。
「自分の愛人に私のプレゼントを選ばせて、その低俗で下品なセンスを押し付けておきながら、私が涙を流して喜ぶとでも思ったの?」
弘光は口を開き、自分と美乃里の関係を正当化しようとした。
その時、けたたましい着信音が空気を引き裂いた。
電話に出た途端、彼の声色は優しく、思いやりに満ちたものに急変する。漏れ聞こえてくるのは、美乃里のすすり泣く声。どうやら彼女の犬が病気になったらしい。
弘光は焦った様子で彼女を慰め始めた。振り返って私を見ることすらなく、そのまま真っ直ぐドアへと向かう。
「美乃里がパニックになってるんだ。俺が行かないと。話の続きは後だ」
そう言い残し、慌ただしく立ち去っていった。
それから丸一ヶ月、弘光との連絡は一切途絶えた。
間近に迫った回顧展に向け、彼はアトリエに籠もり、最後の追い込みに入っていたのだ。
私も忙しかった。
ウェディングドレスの試着に、招待状の選定。そして、私を心から尊重してくれる男性と一緒に、これからの未来を描くことに。
そんな折、弘光から電話がかかってきた。何をしているのかと、彼は尋ねる。
「招待状のデザインを見てるの」
と私は答えた。
電話の向こうで、一秒間の沈黙が落ちる。
やがて、弘光はふっと笑いを漏らした。その声は心底安堵したようで、どこか呆れたような哀れみさえ滲んでいる。
「ああ……やっぱりな」
私が自分との結婚式の準備をしているのだと、彼は疑いもしなかった。
「まあいい、そういう細々としたことは全部お前に任せるよ」
彼は投げやりに言った。
「俺が芸術にしか興味がないのは知ってるだろ。結婚式みたいな形式張ったイベントなんか、お前がいればそれでいいんだ」
そのまま通話は切れた。
直後、再び画面がパッと明るくなる。
美乃里から送られてきた一枚の画像。
それは油彩画だった。キャンバスの中では、一糸まとわぬ姿の美乃里が横たわっている。肌の隅々に至るまでが克明に描き込まれ、生々しい欲望に満ちていた。
指先から滑り落ちたスマートフォンが、鈍い音を立てて絨毯に沈む。頭の中で耳鳴りがガンガンと響き、脳が破裂しそうだった。
その筆致の一つ一つに、芸術表現という枠を遥かに超えた、艶めかしく濃密な愛撫の痕跡が残されている。
見えない巨大な手に心臓を握り潰されたような激痛。私の両目は瞬時に赤く血走った。
かつて私たちが熱烈に愛し合っていた頃、私をこんな風に描いてほしいと彼に懇願したことがあった。しかし弘光は神聖で厳粛な眼差しを向け、それを拒絶したのだ。
「亜由美、真の芸術が描き出すのは肉体ではなく魂なんだ。俺にとってお前はあまりにも尊すぎる。そんな風にお前を冒涜するような真似はできない」
『魂だけを描き出す』などという建前は、最初から存在しなかったのだ。単に、私が彼の心の中に立ち入ったことなど一度もなかったというだけの話。
美乃里からのメッセージは、その後も延々と続いた。
「弘光が私の個展をプロデュースして、業界のトップの輪に入れてくれるって。私の持つ精神のオーラを埋もれさせちゃいけないって言うの――下働きしか能のない誰かさんとは違ってね」
五年前。
ある合同展で弘光のスペースを少しでも確保するため、私は猛吹雪の中、著名なキュレーターの家の前で三時間も立ち尽くした。
足を引きずりながらアトリエに戻り、寒さに震えながら、苦労の末に手に入れた招待状で彼を喜ばせようとした私を待っていたのは、弘光の露骨な嫌悪の顔だった。
「手段を選ばない野心と強欲の匂いが染み付いていて反吐が出る。お前は純粋な芸術を汚しているんだ」
彼は冷酷にそう言い放った。
だが、今はどうだ。
私の献身を『打算的な野心』と切り捨てた男が、美乃里のためなら喜んでプライドを捨て、かつてあれほど軽蔑していた社交事に自ら進んで手を染めている。
七年間、彼の背中を追い続けて……私はもう、すっかり疲れ果ててしまった。
身も心も、彼を完全に過去のものとする準備は整っている。
三日後。都心のギャラリーで開催されたアートサロン。
友人が手に入れたという絵画を見せてもらうため、私は足を運んでいた。
ギャラリーに足を踏み入れた途端、美乃里の姿が目に入った。
「あれ、亜由美さんじゃないですか?!」
私を見つけるなり、美乃里が声を張り上げる。
周囲の視線が一斉にこちらへ向けられた。
彼女はわざとらしく声を大きくする。
「弘光さん、最近忙しくてあなたにかまう暇もないのに、わざわざ追いかけてこなくてもいいじゃないですか。みんな言ってますよ、あなたが彼をストーキングして結婚を迫ってるって。本当にみっともない」
ざわざわと、周囲からヒソヒソ話が漏れ聞こえる。
「あれが弘光の婚約者? 九十九回もすっぽかされたっていう?」
「まだ結婚を迫ってるのか? 少しは恥を知ればいいのに」
「もういい歳だし、男の心を繋ぎ止めるなんて無理なんだろうな」
こんな茶番に付き合う気はなく、私はきびすを返してその場を離れようとした。
だが、美乃里が不意に足を突き出してきた。
バランスを崩す――
私は目を閉じ、床に叩きつけられる痛みを覚悟した。
しかし、いつまで経ってもその落下は訪れなかった。
力強い両腕が、私の腰をしっかりと抱きとめていた。
覚が、私をその胸の中に引き寄せていたのだ。
「亜由美!」
怒声が静寂を打ち破った。
人混みを掻き分け、弘光が血相を変えて突進してくる。覚に抱き抱えられる私を見た瞬間、彼の両目は血走った。嫉妬と独占欲で顔が歪み、恐ろしいほどの形相になっている。
「何をしてる?! 彼女から手を離せ!」
彼は猛然と駆け寄り、私を引き剥がそうと手を伸ばす。
覚は一歩も引くことなく、むしろ私をさらに強く抱きしめ、まるで道化の芝居でも見物するかのような目で弘光を見下ろした。
唐突に、美乃里の鋭い悲鳴が響き渡った。
彼女が着ていた白いワンピースの胸元を赤ワインが伝い落ち、大きな深紅の染みを作り出している。
美乃里は胸元を押さえ、瞬時に大粒の涙をこぼした。
「亜由美さん……どうして私にワインをかけるんですか……」
弘光は即座に自分のジャケットを脱ぎ、美乃里の肩に掛けた。
そうして振り返り、私をきつく睨みつける。
「お前はどうしてそこまで陰湿なんだ? 彼女が幸せに生きるのがそんなに許せないのか!」
これが弘光だ。
何が起きようと、彼は常に美乃里の味方をする。
私が無言のままでいるのを見て、弘光は深く息を吸い込んだ。声を潜め、いかにも『寛大』な口調を作って言う。
「わかった。もうやめろ。腹を立てているからこんなことをしたんだろう。今すぐ美乃里に謝るなら、今度婚姻届を出しに行く時は必ず時間通りに行く。約束する」
覚の腕がぎゅっと私を抱きしめる。彼が私の代わりに口を開こうとした。
私は手を伸ばし、それを制止する。
「弘光、よく聞いて」
「まず第一に、私は彼女にワインなんてかけていない」
「第二に、私は確かに結婚するわ。でも新郎はあなたじゃない」
「だから、あなたが婚姻届を出しに行く必要は、もう二度とないのよ」
