第3章

「いい加減にしろ、亜由美」

 弘光は私の言葉を微塵も信じていなかった。

 彼にしてみれば、これも私がでっち上げた茶番劇の一つに過ぎないのだ。

「着替えに連れていく。頭が冷えたら来い」

 言い終わるか終わらないかのうちに、彼は身をかがめて美乃里をひょいと抱き上げ、大股で歩き出した。

 美乃里は彼の胸元にすり寄り、勝ち誇ったようにその肩越しから私を振り返った。

 数日後。私が風のようにふっつりと姿を消したことに、弘光はとうとう痺れを切らし、アパートまで押しかけてきた。

 だが、彼を出迎えたのは私の荷物をまとめに来ていたリリだった。

 高圧的に問い詰める弘光を、リリは部屋に入れることすらしない。ドアの前に立ち塞がり、冷ややかな声で告げた。

「あの子なら留守よ。覚との結婚式に向けて、遠出をして絵を描いているわ」

 その言葉を聞いて、弘光は一瞬きょとんとし、やがて肩の荷が下りたように突然声を上げて笑い出した。

 彼に言わせれば、私が彼から離れることなどあり得ないし、ましてや別の男と結婚するなど言語道断なのだ。

「覚だと?」

 彼は呆れたように首を振った。私を甘やかすような余裕すら見せ、これが彼を怒らせるために親友と結託してついた見え透いた嘘だと高を括っていた。あるいは——実は彼との結婚式を密かに準備しており、サプライズを仕掛けようとしているのだと。

 そんな根拠のない自信を胸に、弘光は踵を返した。数日ほど「頭を冷やす」時間を与えてやろうと計算しながら。こんな駆け引きの真似事にも飽きれば、どうせ自分から泣きついてくるに決まっている。

 五年前、私もまた周囲から天才と持て囃されていた。その年、ギャラリー『レッド・ホール』から個展開催のオファーが舞い込んだのだ。それは無数の画家が夢見てやまない、輝かしいデビューの舞台だった。

 しかし当時、弘光はかつてないほどの激しいスランプに陥っていた。

 オファーの知らせを彼と分かち合おうとしたとき、彼は私のパレットを払い落とした。真っ赤な絵の具が血のようにキャンバスへ飛び散る。

「こんな時に俺を見捨てる気か!」

 血走った目で私の両肩を掴み、彼は怒鳴り散らした。

「俺は今、何も描けないんだぞ。それなのにお前は個展を開くっていうのか? 亜由美、まずは俺を最優先にしてくれよ。お前が才能を示す機会なんて、これから先いくらでもあるだろう」

 苦悩に満ちたその姿を見て、私は心を絆されてしまった。

 自らの手で招待状を引き裂き、あらゆるチャンスをふいにして、彼を支える影となったのだ。

 それから五年。

 ただ一人、犠牲になったのは私だけだった。

 一週間後。弘光のアトリエには、息が詰まるほどの焦燥感が立ち込めていた。

「くそっ!」

 彼は低い声で悪態をついた。

 どのように絵の具を調合しても、しっくりこない。派手すぎるか、あるいは濁りすぎている。

「亜由美!」

 苛立ちまかせに声を荒らげる。

 だが、返ってきたのは水を打ったような静寂だけだった。

 その時になってようやく、彼はずっと前に私が去っていたことを思い出したのだ。

「弘光……」

 そばに立っていた美乃里が、恐る恐る口を開いた。彼の苛立ちを見て取ると、すり寄ってそっと腕に抱きつく。

「怒らないで。あんな人のためにイライラするなんて馬鹿げてるわ」

 美乃里は唇を尖らせ、鼻で笑って見せた。

「亜由美が消えてせいせいしたじゃない。正直言って、家事と筆洗い以外にあの女に何ができたっていうの? 雑用しか取り柄のないような所帯染みた女に、あなたの芸術なんて理解できるわけないわ」

 美乃里は、こう言えば弘光の機嫌を取れると思い込んでいた。

 しかし、弘光の動きがピタリと止まる。

 彼は握りしめていた筆を床に激しく叩きつけた。ぱきり、と鋭い音が響く。

「彼女は、俺が無名だった頃から今日までずっと連れ添ってくれたんだぞ!」

 弘光は凄まじい剣幕で怒鳴りつけた。

「あいつの色彩に対する鋭い感性は、お前みたいな奴が十年修行したって足元にも及ばない! お前に彼女を評価する資格なんてあるものか!」

 アトリエの空気が一瞬にして凍りついた。

 その怒号を浴びて、美乃里はびくりと身を震わせた。ひどく傷ついたような顔をしたものの、弘光から発せられる暴力的な気配に怯え、声も出せない。

 怒鳴り散らした後、弘光はその場に立ち尽くし、しばらく呆然としてから、激しく痛むこめかみを指で押さえた。

 異様な緊張感が漂う中、机の上に投げ出されていたスマートフォンが突然、狂ったように振動し始めた。

 それは彼と古くからの友人たちとのグループチャットだった。これほど通知が鳴り止まないのは珍しい。

 弘光は苛立ちながらスマホをひったくり、とにかくその音を黙らせようとした。

 だが、画面に視線を落とした瞬間、全身の血が凍りついた。

 そこに転送されていたのは、私のインスタグラムのスクリーンショットだった。

 アカウントのアイコンはあの横顔の写真のままだが、投稿されているのは、もはや彼の展示会の宣伝素材ではない。

 一枚の画像。

 写真には、私と覚の手がしっかりと恋人繋ぎされている様子が写っていた。

 さらに目を引くのは、薬指にはめられた大粒のピンクダイヤモンドの指輪だ。眩いほどの輝きを放っている。

 キャプションには、たった一行だけこう添えられていた。

『やっと運命の人に出会えました。これからの人生、よろしくお願いします』

「嘘でしょ……」

 覗き込んだ美乃里が、大げさに息を呑む。

「亜由美、本当に他の男と結婚したの?! こんなに早く?!」

 弘光の手が激しく震え出した。

 スマートフォンが手から滑り落ち、床に広がる混ざりきっていない絵の具の水たまりへと重い音を立てて落ちる。

 その瞬間、彼がこれまで微塵も疑うことのなかった世界に、初めて決定的な亀裂が走った。

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