第10章

黒いメルセデス・ベンツが、スラムのいちばん荒れた区画へと滑り込む。

ここにはM市みたいな眩いネオンなどない。腐ったゴミの山と、遠くでときおり響くサイレン。それだけ。

車は廃倉庫の前で止まった。

「降りろ」

真琴は後部座席の影に沈み、隣の人間へ視線すらくれない。

絵里奈がドアを押し開けると、湿った冷気が薄い襟元から入り込み、身体中の赤い腫れと火傷を容赦なく刺した。

よろめいて、一歩。踏みとどまる。昨夜踏みつけられた手が、じくじく疼いていた。

屈強な男が二人、重い鉄扉を押し開く。

バンッ!

耳を裂くようなヘヴィメタルの爆音と、濃い煙草の匂いが一気に吐き出された。

N市最大の地下カジノ。金が骨まで溶ける、正真正銘の地獄だ。

「いいか」

真琴の声が、耳の奥に刺さる。小型イヤホン越しだ。

彼は車を降りていない。後から入った監視車の中で、モニターに映る店内を見下ろしている。

「一千万円。それが冬月家の命綱だ。取れなきゃ、そこで死ね」

絵里奈は鉄扉を押し、轟音の中へ足を踏み入れた。

地下の空間は熱と汗と酒と欲望で濁り、数百のギャンブラーが何十もの卓を囲んで吠えている。空気そのものが、金の匂いをしていた。

灰色の影——絵里奈は、刺青だらけの男と露出の多い女が入り乱れる渦の中で、ひどく場違いだった。

彼女は「テキサス・ホールデム」の卓へ向かう。

「よぉ、どっから来た嬢ちゃんだ?」

ディーラーは坊主頭の巨漢。雪茄を咥えたまま、絵里奈の全身をねっとり舐め回す。

「そんな格好で修道女のつもりか? それとも売りに来たか?」

どっと下卑た笑いが弾けた。

「賭ける」

絵里奈の声は掠れていた。それでも、この騒音の中で妙に通る。

「賭ける? チップは?」

坊主頭は煙を吐き、絵里奈の顔へ吹きかける。

「金がないなら、服一枚脱いで一万円ってのはどうだ?」

また笑いが湧く。誰かが手を伸ばし、スカートの裾を引っ張ろうとした。

絵里奈は動かない。

金はない。

真琴は彼女の持ち物を焼き、1円すら残さなかった。

罵声が飛び交う。

監視車の中で、真琴はモニター越しに、その薄い影を見ていた。雪茄を指に挟み、表情は冷たいまま。

泣け。

縋れ。

犬みたいに逃げろ。

——そう願っていたのに、絵里奈は一歩も引かない。

その視線が、卓の隅に置かれたフルーツナイフへ落ちた。

迷いなく右手を伸ばし、掴み上げる。

「何する気だ?」

ディーラーの眉が吊り上がる。

絵里奈は答えない。

左腕をベルベットの卓に置く。右手は逆手にナイフを持ち上げ——

ズブッ。

刃が皮膚を裂く、生々しい音。

小腕が切り開かれ、鮮血がつうっと流れ落ち、卓布に暗赤の染みを広げる。

修羅場に慣れた連中ですら、言葉を失った。

無音。床へ落ちる血の滴る音だけが、やけに大きい。

絵里奈は眉ひとつ動かさない。

まるで、血を流す腕が自分のものではないみたいに。

彼女はナイフをチップの山へ叩きつけた。

カン、と乾いた音。

「この手と、この命」

顔を上げる。視線は監視カメラの方向へ。

まるで映像越しに、傲慢で冷たい男と目を合わせるように。

「一千万円に足りる?」

かつて、指先を少し切っただけで甘えるように痛がった次女が——今は自分の身体に刃を入れ、瞬きひとつしない。

監視車の中で、真琴が跳ねるように身を起こした。

血を流す女。麻痺した顔。

握ったグラスに、指が無意識に食い込む。

泣かない。

あの目。

——忌々しいほど決然とした目。

あの日、結婚式で佳奈が刃を受けたときよりも、狂っていて、絶望している。

胸の奥で渦巻く嫌悪に、訳のわからない痛みが混じった。

狂人。

こいつは、本物の狂人だ。

「やらせろ」

真琴がマイクへ命じる。自分でも気づかないほど、声が僅かに震えていた。

勝負が始まる。

絵里奈はカードを見ない。

血を流したまま、顔色を失っても、視線だけはカメラに貼りついている。

——ほら、見て。

できたでしょう。

血が欲しいなら血を。命が欲しいなら命を。

一時間後。

卓の上にはチップが山になっていた。

一千万円。

勝った。

それでも絵里奈は笑わない。喜ばない。

ただ、麻痺したように手を伸ばす。

——やっと、叶えた。

「待て!」

負けて目の血走った坊主頭が、酒臭い勢いで跳ね起きる。

傷ついた絵里奈の腕を乱暴に掴んだ。

「思い出したぞ! お前、あのビッチだ!」

唾を飛ばしながら嗤う。

「狩野真琴は本気でお前を大事にしてるなら、こんな食い物にされる場所に捨てたりしねえ」

坊主頭は絵里奈の顔を指さし、吠えた。

「ニュースで見た! 狩野真琴が新しく娶った女! 姉が死んですぐ義兄のベッドに這い上がった尻軽女!」

言葉が群衆の中で爆ぜた。

侮蔑と下卑た興奮、悪意の視線が一斉に絵里奈を取り囲む。

「だから妙に色っぽいのか。あの女か」

「金のためなら何でもやるって噂だろ」

「捨てられるのも当然だな。ざまあみろ」

坊主頭はいやらしく笑い、脂ぎった手を絵里奈の腕に這わせた。傷口をぐり、と押し潰す。

「金のためなら誰でもいいんだろ? 一千万円は負けたが、お前を気持ちよくしてやるよ……」

激痛。

それでも絵里奈は声を上げない。

押し倒され、背中でチップの山を散らす。

「やめ……」

掠れた抵抗。けれど力が入らない。

痛みで視界が滲み、破れた布人形みたいに酔漢の腕に引きずり込まれる。

周りが囃し立てる。さらに数人が寄ってきた。

「俺にも味見させろよ、狩野の女を!」

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