第12章
絵里奈は鉄扉を出ると、壁づたいに、ずるずると前へ進んだ。
腕の傷はまだ止血できていない。灰色のカシミアの袖は赤黒く染まり、指先から落ちる血がアスファルトに途切れ途切れの痕を刻む。
街灯は心許ないほど暗い。
コンビニ袋を提げた老人が、こちらへ歩いてきた。
灯りを借りて絵里奈の姿を認めた途端、老人の顔色が変わる。全身血まみれ。服は破れ、目には生気がない。
「なんということだ……!」
紙袋が手から落ち、缶詰が転がった。
「お嬢ちゃん……ど、どうしたんだい? 強盗にでも――」
絵里奈は足を止める。
鈍い動きで顔を上げ、少しだけ目を見開いた。
「大丈夫」
口元を引きつらせる。泣き顔より醜い笑みが浮かんだ。
「大丈夫なわけないだろう! そんなに血が出てる!」
老人は滴る腕を見て、焦りで声を裏返らせる。
「ほら、すぐ先に診療所がある。救急車だって呼べる! このままじゃ死ぬよ!」
死。
――別に、どうでもいい。
むしろ、あの日死んだのが自分ならよかった。そう思ったことは一度や二度じゃない。
絵里奈は首を振り、老人を避けて歩き出そうとした。
「命を粗末にするんじゃない!」
老人が追いすがる。痛切な響きが混じる。
「うちの孫娘もな……昔、怪我しても病院に行かず、『大したことない』って……それで……感染して死んだ。二十歳だったんだよ」
老人の声が詰まった。
「お嬢ちゃん。あんたを大事に思ってる人を、悲しませるな」
大事に思ってる人。
その言葉に、絵里奈の足がぴたりと止まった。
祖母の、あの優しい顔が脳裏に浮かぶ。
――おばあちゃんが生きていたら。今の自分を見て、きっと泣いただろう。
ごめんなさい。
私はお姉ちゃんを殺した。あなたの孫娘でいる資格なんてない。
胸の奥が圧し潰され、息が詰まる。
「……ありがとうございます」
絵里奈は掠れた声でそれだけ言うと、足を速めた。逃げるみたいに老人の視界から消える。
タクシーを止める。
運転手は血まみれの姿に顔を引きつらせ、断りかけた。だが絵里奈が差し出した、血の付いた札束を見て――無言でアクセルを踏んだ。
三十分後。
絵里奈はS地区の私設クリニックに着いた。昔から体調を崩したときに通っていた場所だ。守秘が徹底している。
慣れた足取りで二階の外科診察室へ。
ドアは半開きで、室内に人影はない。
絵里奈は押し入るように中へ入り、壁際の長椅子に崩れ落ちた。
「……どうして、こんなことに」
静かな診察室に、澄んだ明るい声が落ちた。
絵里奈は重いまぶたを持ち上げる。
いつの間にか、ひとりの女が立っていた。
仕立てのいい赤いスーツ。波打つ長髪。隙のないメイク。自信と艶を宿した瞳。
彼女は、まるで光っているみたいだった。
絵里奈がとっくに失くした生命力が、そのまま形になったように。
知らない女のはずなのに、なぜか妙に馴染む。
絵里奈は女を見上げ、唇を動かす。
「……カジノ」
「へえ」
女は眉を上げ、驚いた様子もない。
「刺激を求めた? その格好、代償が高すぎるでしょ」
絵里奈は答えない。
「あ、名乗ってなかったね。菅田美雪」
美雪は絵里奈の腕の裂けた傷を見て、眉間を寄せる。
「……気の毒に。どうにもならない厄介事でもあった? だから、こんなやり方を?」
代償。
罪人にとって、こんなものは代償にすらならない。
「どうして……?」
たぶん、相手が他人だから。たぶん、自分が限界だから。
絵里奈はひどく正直に言った。
「私が……お姉ちゃんを殺した。真琴の、愛した人を」
「痛い?」
美雪がしゃがみ込み、絵里奈と目線を合わせる。
「痛くない」
絵里奈は虚ろに答えた。
「私が悪い。……当然」
視線を落とし、血で汚れた自分の手を見る。
「償ってる」
息の音みたいな声。
「真琴に、この命を返す。私が彼に負わせた分を」
冬月家のためになるなら。真琴の怒りが少しでも収まるなら。
この程度の傷が何だというのか。
美雪が、長く息を吐いた。
そして――汚れ切った絵里奈を、そっと抱きしめた。
温かい。柑橘の香りがした。
その体温が、絵里奈の身体にこびりついた冷えをゆるめていく。
「バカ」
美雪の声が耳元で揺れる。泣きたくなるほど優しい。
「償いたいなら、生きてやりなよ。死んだら終わり。何も残らない」
絵里奈は温もりの中に顔を埋めた。
張り詰めていた神経が、ほんの少しだけほどける。
知らない人でもいい。
少なくとも今、汚い自分を抱きしめた誰かがいる。
カチャリ。
鍵が回る音。
「すみません、お待たせしました。急患が入ってしまって――」
白衣の男が入ってくる。中島誠司医師。カルテを手にしている。
美雪は腕を解き、立ち上がった。
そして絵里奈にウインクし、眩しい笑顔を残す。
「急ぎの用があるから、私はこれで。ちゃんと自分を大事にしてね。……また会える」
ハイヒールの音を響かせ、出口へ向かう。
入ってきた医師とすれ違いざま、赤い影が消えた。
「――えっ。冬月さん!?」
中島は椅子の人影を見て青ざめ、カルテを落としかけた。
駆け寄り、傷だらけの腕を見て息を呑む。
「こ、これは……刃物の傷ですよね? 誰に? 警察を――」
「いいえ……料理中に、手が滑って」
自分でもわかる。拙すぎる嘘。
中島は傷口を見つめた。骨が覗くほど深い。切り口は整いすぎている。
どう見ても、力任せに刺し込まれた傷だ。
だが彼は、愚かじゃない。名家には口にできない事情があると知っている。
「……耐えてください。縫います」
針が皮膚を貫く。
中島の手は忙しいのに、絵里奈の意識はカジノへ引き戻されていた。
真琴が血を見たときの目。そこにあったのは嫌悪だけ。
――当然だ。
可哀想がられる資格なんて、自分にはない。
中島が眉を深く寄せる。
「あと2センチ深かったら、手が使えなくなっていました。分かっていますか? あなた、デザイナーでしょう。手は命です」
デザイナー。
絵里奈は手術灯の下で、自分の壊れた手を見た。
もう二度と、美しいジュエリーは生み出せない。
「……構いません」
小さくそう言う。
中島の手が一瞬止まり、絵里奈を見る。複雑な目だった。
縫合が終わる。
それから中島の視線が、絵里奈の首筋と肩に移った。
赤い発疹が広がり、掻き壊して黄いろい滲出液と血が滲む。ぞっとするほど生々しい。
中島は額に手を当てた。
熱い。
「発熱しています。39度はあります」
顔色がさらに悪くなる。
「重いアレルギー反応に感染が乗ってます。何を食べたんです? ……ブルーベリー?」
彼は知っている。絵里奈がブルーベリーに強いアレルギーを持つことを。
絵里奈は黙って、こくりと頷いた。
「自殺する気ですか!」
中島の声が跳ね上がる。
「こんな深い傷の上に、アレルギーまで。冬月さん、命をそんなふうに扱うものじゃない! いったい何が――」
何があった。
報いを受けただけだ。
絵里奈は目を閉じる。底に沈む絶望を隠すように。
「大丈夫です。薬を出してください」
中島は言葉を失ったように見つめ、それから処方箋を書き始めた。強い抗生剤と抗アレルギー薬。
ペンを走らせながら、探るように声を落とす。
「もし家庭内の暴力とか、どうにもならない問題なら……支援機関につなげます。心療内科の介入も――」
絵里奈は目を開けた。
中島の心配そうな顔。
さっきの、美雪の温かさがまだ肌に残っている気がした。
……必要ない。
誰にも救えない。
これは真琴からの罰で、私は自分で望んで受けている。
絵里奈は静かに首を振る。
「ありがとうございます。薬だけでいいです」
