第3章

N市の一面は、狩野グループ社長と義妹のホテル密会写真で埋め尽くされていた。

狩野家の株価は乱高下し、取締役会からの電話が真琴の携帯を鳴らし続ける。

損失を抑えるために。

あの忌々しい一族の名誉を守るために。

狩野真琴は、ついに折れた。

だがその目に澱む憎悪は、あの雨の夜よりなお深い。

真琴は信じている。すべては絵里奈が狩野家の奥様になるために仕組んだことだと。

「狩野家の奥様になりたいのか」

真琴は総革張りのソファに腰を沈め、火もつけていない葉巻を指先に挟んだまま、刃のような視線で絵里奈を切り刻む。

「いいだろう。望みどおりにしてやる。だが覚えておけ。お前が欲しがったのは、地獄だ」

盛大な式はない。

牧師の祝福もない。

指輪ひとつ、与えられなかった。

あるのは白金海岸に建つ、墓のように冷えきった狩野邸だけ。

「それを着ろ」

真琴がベッドの上を指す。

積まれていた白い布を見た瞬間、絵里奈の血が凍った。

それはウェディングドレスだった。

佳奈が息を引き取ったとき、身にまとっていたもの。

腰から腹にかけて広がる暗赤色の染みは、とうに乾ききって黒ずんでいる。

姉が流し尽くした血だった。

「いや……」

絵里奈は反射的に後ずさる。

胃がきゅっと痙攣した。

「お前に拒む資格はない」

真琴が立ち上がる。

長身の影が一気に落ち、息が詰まるほどの圧迫感が絵里奈を包んだ。

「お前はあいつの代わりになろうと、必死だったんだろう。だったら最後までやれ。着るか、今すぐここから失せるかだ」

絵里奈の指先は震え、布をまともに掴むことすら難しかった。

それでも真琴の前で上着を脱ぎ、死の気配が染みついたドレスに腕を通す。

乾いて硬くなった血の塊が、やわらかな肌をざりざりと擦った。

まるで死者の手が幾筋も這い回り、掻き毟ってくるみたいに。

痛みを呑み込みながら、絵里奈は階段を下りる。

ホールにいた使用人たちが、いっせいに動きを止めた。

向けられる目は、針のように鋭い。

「まさか……本当に着たの……」

「佳奈様の血がついたままなのに……」

「成り上がるためなら、死人の衣装まで平気なのね」

ひそひそ声が耳の奥へと潜り込んでくる。

それでも絵里奈は背筋を伸ばした。

顔色は紙のように白いのに、俯こうとはしなかった。

夜。

主寝室。

絵里奈は息苦しいウェディングドレスを脱ぎ、長い時間をかけて身体を洗った。

皮膚に染みついたはずもない血の匂いを、どうにか落としたかった。

浴室を出ると、絵里奈は姉をなぞるように、良き妻を演じはじめた。

トレイを手に、書斎の扉をそっと押し開ける。

載っているのは、焼きたてのクランベリークッキー。

佳奈が生前よく作っていた菓子で、真琴の好物でもあった。

書類に目を落としていた真琴が、気配に顔を上げる。

その視線は、絵里奈が身をかがめた拍子にのぞいた胸元と、トレイの上の菓子に落ちた。

次の瞬間、目に宿った嫌悪が、かっと怒りへ変わる。

「そうまでして男を誘いたいのか。消えろ」

「真琴……これ、お姉ちゃんがよく作ってたものなの……」

絵里奈は真琴がなぜ怒ったのかわからないまま、机の傍まで歩み寄った。

妻らしい気遣いを見せたかっただけなのに。

「お仕事でお疲れだと思って……少しでも――」

ぱりんッ!

張りつめた静寂を、鋭い破砕音が引き裂いた。

真琴が乱暴に腕を払う。

トレイが床へ叩き落とされ、上等な皿は粉々に砕け散った。

赤いジャムが高価な絨毯へ飛び散る。

あの日の結婚式で流れた血、そのままの色だった。

「お前ごときが、これを作るな」

真琴は机を回り込み、絵里奈の長い髪を鷲掴みにする。

無理やり上を向かされ、絵里奈はつま先立ちになった。

「俯いて胸元を見せた、その魂胆がわからないとでも思ったか」

「娼婦みたいな真似をしながら、あいつの好きだった菓子を持ってくる。何がしたい。俺を誘うつもりか。それとも、お前がどうやって姉を踏み台にしてここまで来たか、わざわざ思い出させたいのか」

頭皮が焼けるように痛む。

涙が滲んでも、絵里奈は唇を噛みしめ、声を殺した。

「言え!」

真琴の怒声が叩きつけられる。

「……ただ……お姉ちゃんの代わりに、あなたを気遣って、お世話したくて……」

途切れ途切れの声だった。

「お前があいつと並べると思うな」

真琴は死んだ犬でも引きずるみたいに、髪を掴んだまま絵里奈を書斎の外へ引きずり出した。

「やめて……真琴……痛い……」

よろめく膝が、廊下の硬い大理石に何度も打ちつけられる。

赤い擦り傷がいくつも走った。

それでも真琴は耳を貸さない。

廊下の突き当たりにある扉を、蹴り破るように開け放つ。

そこは、本来なら二人の新婚部屋になるはずだった部屋。

中は佳奈が生前整えたままの姿で残されていた。

壁には大きな結婚写真。

写真の中で佳奈はやわらかく微笑み、真琴は愛しさを隠しきれない目で彼女を見つめている。

真琴は絵里奈を床へ叩きつけた。

「クズが。目を見開いてよく見ろ」

後頭部を押さえつけられ、顔を床へぐいと圧しつけられる。

真正面には、結婚写真。

「そんなに姉に見せたいのか。俺をたぶらかしてるところを」

「見てるぞ、絵里奈。お前の姉は、天国から全部見てる。発情した薄汚い姿をな」

佳奈の、あの優しい目。

それを見た瞬間、絵里奈の中にあった感情が一気に決壊した。

罪悪感。

苦しみ。

絶望。

全部が濁流のように押し寄せ、呑み込んでいく。

「ごめんなさい……お姉ちゃん……ごめんなさい……」

絵里奈は崩れ落ちるように泣いた。

身体が激しく震える。

そのとき脳裏をよぎったのは、血にまみれた姉の最期の顔。

そして、かすれた声で残されたあの言葉。

――幸せになって。

幸せに。

泣いちゃだめ。

姉は、自分の幸せを願ってくれた。

真琴に嫁げたことは、幸せの始まりのはずだ。

姉の遺した願いを、自分は果たしたのだから。

絵里奈の嗚咽が、ぷつりと止まる。

真琴が目を見張る前で、絵里奈は手の甲で涙を乱暴に拭った。

震える唇を引き上げ、紙みたいに白い顔に、泣き顔よりも痛々しい笑みを無理やり貼りつける。

「わたし……幸せ……」

結婚写真に向かって、支離滅裂な言葉をこぼした。

「お姉ちゃん、見て……わたし、真琴にお嫁に来たの……一緒にいられるの……わたしが……真琴を幸せにするから……」

その笑みは歪み、引きつり、見る者の背筋をぞっとさせる狂気を滲ませていた。

真琴はその顔を見て、ぞくりと背を冷やす。

そして次の瞬間には、先ほどまでとは質の違う、もっと深い嫌悪が湧き上がった。

「狂ってる」

真琴は手を離し、汚物にでも触れたように一歩退く。

「お前は本物の狂人だ」

その声には、もう怒りの熱さすらなかった。

あるのは凍りついた軽蔑と侮蔑だけ。

殴られるより、なお痛い無関心。

「佳奈の髪一本にも及ばない。そんな顔を見せられるだけで反吐が出る」

真琴は冷えきった目で絵里奈を見下ろしたまま、言い放つ。

「そんなにこの部屋が気に入ったなら、今夜はここで寝ろ」

「佳奈の記憶で満ちたこの場所で、自分の罪をせいぜい悔やむんだな」

ばんッ!

扉が勢いよく閉じられる。

すぐあとに、鍵のかかる音が響いた。

絵里奈は歪んだ笑みを貼りつけたまま、薄暗い部屋にひとり、膝をついていた。

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