第4章
部屋の空気は重く、肺の奥まで押し潰されそうだった。
真琴は扉口に立ったまま、手の甲の血管を浮かせるほど拳に力を込める。
床に跪き、口元に不気味な笑みを貼り付けた女――絵里奈を、真琴は射抜くように睨んだ。胸の奥で燃え続けた怒りが、理性の最後の欠片を焼き切る。
「……笑うな」
咆哮が空っぽの廊下に反響する。踵を返して立ち去ろうとした、そのとき。視界の端にベッドサイドのクリスタルのオルゴールが入った。佳奈が手作りして、真琴に贈った最初の誕生日プレゼント。
真琴は歩み寄り、掴み上げると、迷いなく床へ叩きつけた。
「お前が、彼女の部屋で笑う資格はない」
パリン!
鋭い破裂音に、絵里奈の身体がびくりと震える。硬い笑みがようやく剥がれ落ち、残ったのは底なしの静寂だけ。
真琴は見下ろした。
「絵里奈……教えろ。なんで死んだのがお前じゃない」
絵里奈の表情が凍りつく。
錆びた鈍い刃を、膿んだ傷口に捻じ込まれるような言葉。
――どうして死んだのが自分じゃないのか。
そうだ。
それは彼女自身が、何度も神に問い続けた言葉でもあった。
だが真琴は答えなど求めていない。
汚された新居を最後に一瞥し、踵を返す。
ドン、と扉が叩きつけられた。光も温度も、まとめて遮断される。
闇が戻った。
絵里奈は冷たい床に座り込んだまま、壁に掛かった大きな結婚写真を虚ろに見つめる。
写真の中の姉は、あまりにも優しく、あまりにも幸福そうに笑っている。
震える手を伸ばし、ガラスの手前で指先が止まった。
触れられない。触れてはいけない。
自分は汚い。
手は姉の血にまみれ、身体は義兄の下で甘い息を吐き、今も姉の居場所を奪っている。
どうして触れられる。
「ごめんなさい……」
絵里奈は身を丸め、額を床へ押しつける。涙が音もなく絨毯に染みていく。
ふと、遠い記憶が胸を刺した。
クルーザーの上。手すりにもたれた佳奈が海風に髪を揺らし、振り返って笑った。
「絵里奈も、自分の幸せを見つけてね。いい?」
あの頃の陽射しは、こんなにも温かかったのに。
今の自分は、姉の幸福を盗んでいる。
――私は、救いようのない罪人だ。
その思いが石みたいに胸にのしかかり、呼吸さえうまくできない。
その夜、絵里奈は終わりのない悪夢に囚われた。
廃倉庫。誘拐犯の醜い顔。眩しい刃。姉が飛び込んだ、決然とした眼差し。
何度も、何度も。
汗だくで目を覚まし、巨大な婚礼用ベッドの隅で身体を縮める。
部屋中に残る佳奈の気配――香水、置き物、癖。
それらが絵里奈の罪悪感を限界まで膨らませた。
夜が明けるまで、眠りは一秒も訪れない。
壊れた人形みたいに、ベッドの足元で虚空を見つめ続けた。目は血走り、瞬きさえ忘れる。
コンコンコン。
ノックが静寂を割った。
扉が開き、年配の使用人がトレイを手に入ってくる。
この屋敷で数少ない、新しい奥様に露骨な悪意を向けない者だった。
「奥様……一日、何も召し上がっていません」
憐れみを含んだ声。
絵里奈の瞳孔がきゅっと縮む。
トレイの上には焼きたてのブルーベリーパイ。濃い紫のジャムが縁から溢れ、甘ったるい香りが広がっていた。
佳奈の大好物。
――なのに、胸の奥から吐き気が込み上げる。
紫が歪み、暗赤の血の塊に見えてくる。
姉がフォークを持って笑い、口元へ運んでくれた光景が閃く。
「ほら、口を開けて。絵里奈。いちばん美味しいの」
次の瞬間、姉の胸から溢れた血が重なる。
同じ粘度。似た色。
胃が裏返りそうだった。
「持っていって!」
叫びと同時に身体が動き、絵里奈はトレイを払い落とした。
ガシャン!
白い皿が砕け散り、ブルーベリーの紫が床へ飛び散る。ぞっとする痕跡。
使用人が悲鳴を上げ、慌てて退いた。
絵里奈は荒く息をし、頭を抱えたまま震える。
わざとじゃない。
ただ……怖かっただけだ。
しゃがみ込み、欠片を拾おうとする。
「ごめんなさい、違うの……私は……」
指先が鋭い破片に触れ、ぷつりと血が滲んだ。
血がジャムと混ざり、どちらがどちらかわからなくなる。
生々しい鉄の匂いが部屋に満ち、絵里奈は呆然と床を見つめた。
お姉ちゃん……ごめんなさい。
そのとき、重い足音。
一歩ごとに神経を踏み潰されるような音。
真琴が扉口に現れた。
起き抜けなのかシャツのボタンは外れ、逞しい胸が覗く。だが顔は陰鬱に沈み切っている。
怯える使用人を一瞥し、視線が床の惨状に止まった。
砕けたパイ。佳奈が愛した朝食。
室温が一気に氷点下へ落ちる。
真琴は大股で入室し、靴底で欠片を踏み砕く。ぎり、と耳障りな音。
しゃがむ絵里奈の手の血を見ても、憐れみなど一欠片もない。あるのは、冒涜された怒りだけ。
「クズ……何をしてる」
低い声が圧になる。
絵里奈は青白い顔で見上げ、震える唇で言い訳を探した。
「真琴……私、わざとじゃ……ただ、これを見たら……」
「見たら吐き気がしたか?」
真琴が遮り、口元を残酷に歪める。
「佳奈が好きだったから、ゴミみたいに床へ捨てたのか?」
「違う……違うの……!」
絵里奈は必死に首を振り、涙が溢れた。
「お姉ちゃんが好きだったからこそ……ただ、思い出して……!」
「黙れ!」
真琴は手首を掴み、骨が軋むほどの力で引き起こす。
そして床の汚れを見せつけるように突きつけた。
「思い出す? お前にその資格があるのか?」
赤い目で吠える。
「絵里奈、偽善の芝居はやめろ。お前に彼女の好きなものを嫌う権利がどこにある!」
真琴の指に、さらに力が籠もった。
「……わからせてやる。お前が何をしたか、どれだけ醜いか」
