第6章
深夜。食堂にだけ、ぼんやりと灯りがひとつ残っていた。
絵里奈は冷えきった床から立ち上がる。身にまとった白いロングドレスは寸法が合わず、だらしなく垂れて、目も当てられない。
空き部屋を出た彼女は、うたた寝していた使用人の田中佳代を見つけた。
「ブルーベリーパイを、もう一枚」
声に抑揚はない。
田中佳代ははっとして、額の腫れと頬に残る涙の跡を見つめ、ためらいがちに口を開く。
「奥様、その……」
「作って」
絵里奈の目は虚ろだった。けれど、その口調には拒絶を許さない硬さがある。
田中佳代はぞくりと身を震わせ、それ以上は何も訊けず、踵を返して厨房へ駆けていった。
十分後、整ったブルーベリーパイが目の前に置かれる。
絵里奈は銀のフォークを取り、ひと切れを切り分けて、口へ運んだ。
もう吐き気はこない。あるのは、ただ麻痺だけ。
甘ったるいジャムが喉を滑り落ちる。強いアレルギー反応が起こり、気道がみるみる腫れ上がっていく。
痒い。
骨の芯まで、焼けつくように痒い。
いっそ、このまま死んでしまいそうなくらいに。
絵里奈は無表情のまま手を上げ、赤い発疹で覆われた腕へ指先を落とした。
びりっ――
ためらいは、ひとかけらもない。
力を込めて掻きむしる。
裂けた皮膚から血が滲み、爪の間を赤く染めた。
「奥様、お願いです、もうおやめください!」
田中佳代が怯えきった声で泣き出し、止めようと駆け寄ろうとする。
「来ないで」
絵里奈はなおもブルーベリーパイを噛み、感覚の死んだような顔で飲み込んでいく。もう片方の手は、首筋、鎖骨、腕を休みなく掻き続けていた。
「これは、私が受けるべき罰だから」
腕には痛々しい血の筋が幾重にも走っている。けれど、その激しい痛みだけが、今はかろうじて息をさせてくれた。
これが罰。
真琴が、姉様の好きだったものを嫌がる資格すらお前にはないというのなら――それを自分の身体の一部にしてしまえばいい。
たとえ、それが命を奪うものだとしても。
皿が空になって、ようやく絵里奈はフォークを置いた。
全身に血が滲んでいるのに、その顔は死人のように静まり返っていた。
午前5時。
M市の空は、まだ灰色のままだった。
絵里奈は顔と首に残る赤い発疹を、厚いファンデーションで塗り潰した。肌はまだ熱を持っている。けれど、少なくとも見た目だけはましになる。
主寝室のウォークインクローゼットへ入り、スチーマーの電源を入れる。
高温の蒸気がしゅうっと噴き出し、視界が白く曇った。
真琴が今日着るオーダースーツを取り、ひとつひとつの皺を丁寧に伸ばしていく。
昔は姉様も、こうしていた。
なら、自分も同じように、きちんとやらなければならない。
その背後で、足音がした。
風呂上がりの真琴が、腰にタオル一枚だけ巻いた姿で入ってくる。水滴が引き締まった腹筋を伝って落ちていた。
彼が最初に目にしたのは、その後ろ姿だった。
一瞬、錯覚する。
恋人が戻ってきたのだと。
白いドレスをまとい、朝の光の中でせわしなく立ち働くその姿は、佳奈がかつて語っていた結婚後の暮らしそのものに見えた。
だが次の瞬間、その影が振り返る。
現れたのは、発疹と掻き傷だらけの顔。
そして、死んだ魚のような目。
幸福な幻は一瞬で砕け散り、代わりに湧き上がったのは、騙されたような激しい怒りだった。
「何をしてる」
真琴の声は氷のように冷たく、絵里奈の肩をびくりと震わせる。
「朝っぱらからそんな格好で、何を演じるつもりだ。良妻賢母ごっこか? その化け物みたいな顔で、よくそんな真似ができるな。見てるだけで食欲が失せる」
絵里奈はアイロンを置き、皺ひとつなく整えたスーツを両手で持って差し出した。
「あなたの世話をしたいの」
アレルギーで喉が荒れ、声はひどく掠れていた。けれど口調は静かだ。
「今日のお召し物よ。ネクタイは濃紺を選んだわ」
言い返さない。恨み言もない。感情すら見せない。
その従順さが、かえって真琴の癇に障った。
彼はスーツを乱暴に叩き落とす。高価な生地が床へ落ちた。
「世話だと?」
真琴がにじり寄る。視線は、絵里奈が身につけている白いドレスへ落ちた。
それは佳奈のものだ。
いまはこの女が着て、しかも汚れた血までついている。
「お前にそんな資格があるのか」
次の瞬間、真琴は絵里奈を突き飛ばした。
彼女の腰が背後のアイロン台の角に激しくぶつかり、くぐもった呻きが漏れる。そのまま身体は台の上へ崩れ落ちた。
真琴が間髪入れずに身を乗り出す。両腕を彼女の左右へ突き、逃げ場を塞いだ。
裸の上半身からは湯上がりの熱が立ちのぼり、男の匂いが侵略するように迫ってくる。
絵里奈は、目の前の男を見上げた。
怒っている。
どこかにぶつけたいのだ。この痛みを、この苦しさを。
姉様が言っていた。
男は、痛みや重圧に押し潰されそうなとき、逃がし場が必要なのだと。
いま、佳奈はいない。
なら、自分がその代わりになるしかない。
少しでもこの人が楽になるのなら――
絵里奈は震える指を、自分の肩紐へ伸ばした。
嫌悪に満ちたその目に見下ろされながら、ゆっくりと肩紐を下ろしていく。
掻き傷だらけの肩と、胸元が露わになった。
「……望むなら」
低く、掠れた声。
自ら身体を反らし、されるがままの姿勢を取る。
「……いいわ」
尊厳の欠片もない誘い。
安物の娼婦のように。
真琴は、そこで固まった。
自分から衣服をはだけ、死んだような顔で迎合しようとする女。
吐き気がこみ上げる。
「俺が何をするつもりだと思った」
火傷でも負ったかのように、真琴ははっと身を起こした。絵里奈の腕を掴み、そのままゴミでも捨てるように壁際へ放り投げる。
どんっ。
絵里奈は床へ強く叩きつけられ、額をまた床に打ちつけた。鈍い音が響く。
「本当に反吐が出るな、絵里奈」
真琴は服も整わないままの彼女を見下ろし、目を細めた。
「頭の中はそんな下劣なことばかりか? 脱げば、俺が少しはお前を見るとでも思ったのか」
声がさらに冷たくなる。
「それは佳奈のドレスだ。あれを着て、彼女の男を誘うつもりだったのか。廉恥ってものを犬にでも食わせたのか」
絵里奈は床に伏し、痛みに身を丸めた。
誘惑したかったわけではない。
ただ――妻としての務めを果たしたかっただけだ。
彼がこれほど苦しんでいるのなら。これほど自分を憎んでいるのなら。
せめて身体だけでも、ほんの一瞬でも安らぎを与えられるなら、差し出してもいいと思った。
けれど、彼の目にはそれすら卑しいものにしか映らない。
「服を直せ。出て行け」
真琴は背を向ける。これ以上一瞬たりとも見たくないというように。
「『妻』なんて言葉を免罪符にするな。見ているだけで虫唾が走る。お前にそんな資格はない」
足を止めず、さらに言い捨てた。
「それと、そのドレスは二度と着るな。脱いで燃やせ。お前が触れたものを、佳奈が欲しがるはずがない」
足音が遠ざかり、真琴は衣裳部屋を出ていった。
空気が、また静まり返る。
絵里奈は床から起き上がり、落ちた肩紐をそっと戻した。
泣かない。
昨日で、涙はもう枯れてしまったから。
鏡の前へ立つ。
そこに映るのは、全身に発疹を抱え、彼に吐き気を催させる女。
なんて醜いのだろう。
嫌われて当然だ。
絵里奈は白いドレスを脱ぎ、丁寧に畳んで脇へ置いた。
それからクローゼットの中へ視線を走らせる。
最後に選んだのは、灰色のカシミアのロングドレスだった。
灰色。
それは佳奈が生前、いちばんよく身につけていた色。
姉様は言っていた。
灰色は落ち着きの色。控えめで、間違いのない色だと。
絵里奈はその灰色を身にまとった。
傷も、発疹も、まだ脈打っている自分自身さえも――その死の色の下へ、すべて押し込めるように。
鏡に向かい、口元を引き上げる。
佳奈のものだった、正しい微笑みを。
何度も、何度も。練習するように。
