第7章

車のドアが開き、N市ミレニアム・グランド・シアターの灯りが絵里奈の目を刺した。

今日は『星辰の輝き』国際ジュエリーデザインコンテストの授賞式。

絵里奈は、そこへ来た。

灰色のカシミアのロングドレスに身を包み、顔には厚くファンデーションを塗っている。

醜く浮いた紅疹と、消えない傷痕を隠すために。

デザイナー冬月絵里奈として、公の場に立つのはこれが最後。

おそらく――人生で最後の舞台でもあった。

レッドカーペットへ足を踏み入れた瞬間、フラッシュが容赦なく降り注ぐ。

逃げ場はない。

群衆の視線と、指さしと、ひそひそ声に晒されるばかりだった。

「ほら、あの人よ。狩野家の新しい奥様」

「恥知らずね。お姉さんが亡くなったばかりなのに義兄のベッドに潜り込んで、それでよく賞なんて受け取りに来られるわ。どうせ、その賞だって何をしたか知れたものじゃないでしょう」

「全然悲しんでるように見えない。最低。冬月佳奈さんも、あんなクズを助けたこと、きっと後悔してるわよ」

――恥知らず。

そう、その通りだ。

絵里奈は何も聞こえないふりをして、ヒールの音を響かせながら会場へ向かった。

顔には、何度も何度も練習した、佳奈のものだったやわらかな微笑。

背筋をすっと伸ばす。

悪意の言葉は、もう痛みにならない。

自分の席を見つけると、絵里奈はひとりで静かに腰を下ろした。

「何あれ、得意げな顔して」

「義兄をたぶらかしたクズが、人前に出てきて飾り立てるつもり? 気持ち悪い」

式は長く、退屈で、何も耳に入らなかった。

自分の名が呼ばれる、その瞬間までは。

作品名は『絶響』。

デザイン部門を離れる前に手がけた、最後の作品。

あるいは、人生最後の作品。

絵里奈は姉の落ち着きをなぞるように、一歩ずつ壇上へ上がった。

サインもしない。

手も振らない。

あるのは、息が詰まるような沈黙だけ。

トロフィーを受け取り、マイクの前で落とした言葉は、たったひとつ。

「……ありがとうございます」

客席のざわめきがまた少し大きくなる。

佳奈の名がまた耳に刺さり、絵里奈は足早に壇上を降りた。

そうだ。

姉を死なせた自分に、こんな場所を受け取る資格なんてない。

バックステージへ入ると、喧騒がようやく少し遠のいた。

絵里奈は冷たい壁にもたれ、大きく息を吸う。

ひりつく皮膚の痛みを、冷えた空気でどうにか押さえ込みたかった。

そのとき、バックステージの廊下で、シャネルのスーツを纏った上品な女が声をかけてきた。

「冬月さん」

絵里奈が振り返る。

今回のコンテスト審査員のひとり、著名なジュエリー鑑定家、神崎百合だった。

「あなたの作品、本当に素晴らしかったわ」

百合は一歩近づき、まっすぐな賞賛をその目に宿したまま続ける。

「行政職へ移られたそうね」

小さくため息をついた。

「どうして? あなたほどの才能が、このまま埋もれていいはずがないわ」

絵里奈はトロフィーを握る指先に、そっと力を込めた。

どれくらいぶりだろう。

誰かとデザインの話をするのは。

誰かに、天才と呼ばれるのは。

けれど、血まみれの佳奈の顔が脳裏に浮かんだ瞬間、その視線を受け止めていられなくなる。

「……意味のないことも、あるんです」

声は自然と沈んだ。

「私はそうは思わないわ」

百合は静かに首を振る。

「あなたの作品には、諦めきれなさも、葛藤もあった。冬月さん、自分がいちばん愛していたものまで手放さないで」

そのひと言が、絵里奈の胸のいちばん柔らかな場所に突き刺さった。

自分が、愛していたもの。

かつては自由だった。

スポットライトだった。

図面の上に閃きを落としていく、あの瞬間だった。

けれど今は、何ひとつ愛してはいけない気がする。

この命は佳奈が引き換えにしたものだ。

だから自分の人生は、もう自分だけのものじゃない。

それでも。

百合の真っ直ぐな眼差しを見ていると、張り詰めきっていた神経が、ほんの少しだけ緩んだ。

それは、姉を真似た作り笑いではない。

感謝と、かすかな安堵の滲む、ごく浅い微笑だった。

「……ありがとうございます」

絵里奈はハンドバッグからベルベットの箱を取り出し、百合に差し出した。

「昔作ったものなんです。よろしければ、記念に受け取ってください」

中には、小ぶりなダイヤのピアス。

軽やかで、それでいて凛とした輝きを放つ意匠だった。

百合はそれを見つめ、やがて受け取る。

「ありがとう。でも私は、あなたの次の作品を待っているわ」

絵里奈は答えなかった。

ただ、もう一度だけ微笑み、静かに背を向けた。

会場二階の影から、真琴はその一部始終を見ていた。

あの女と話している姿も。

そして、絵里奈の顔に浮かんだ、久しく見ていなかった――刺すような笑みも。

あの笑顔は、自分に向けられたものじゃない。

自分のためにこぼれたものでもない。

佳奈も、ああして笑った。

あたたかく、澄んでいて、まるで天使みたいに。

その佳奈は、冷たい墓の下で朽ちている。

なのに絵里奈は、佳奈がいちばん愛した灰色を纏い、他人に向かって笑っていた。

幸せそうに。

許せるわけがない。

佳奈を死なせた女。

自分のベッドに恥知らずにも這い上がった女。

そのくせ佳奈とよく似た顔で、あんなふうに幸せそうな顔をするなんて。

何の資格があって。

佳奈の居場所を奪い、佳奈の人生を奪い、ふたりの未来を壊したくせに。

「……くそ」

真琴はグラスの酒を一気にあおった。

喉を焼く辛さでは、胸の底で渦巻く歪んだ怒りは消えない。

笑うことなど許さない。

佳奈がこの世に戻らないかぎり、冬月絵里奈には、ほんのひとかけらでも笑みを浮かべる資格はない。

……

二時間後。

狩野邸。

絵里奈が扉を開けたとき、もう夜は深かった。

赤く腫れた皮膚が、悲鳴を上げるみたいに痛む。

けれど、自分に痛いと訴える資格などない。

これも全部、受けるべき罰だ。

絵里奈は小さく息を呑み、高いヒールを脱いだ。

裸足で踏んだ大理石は、ぞっとするほど冷たい。

ロビーにはフロアランプが一つだけ。

鈍い灯りが空間をぼんやりと照らしていた。

その影の中心に、真琴が座っている。

足を組み、手にはウイスキーのグラス。

周囲の空気そのものが重く沈んでいた。

絵里奈の鼓動が、一拍だけ止まる。

扉口に立ったまま、もう一歩も進めなかった。

真琴がゆっくり顔を上げる。

淀んだ空気を裂くように、その視線が絵里奈の顔へ真っ直ぐ突き刺さった。

冷酷で、陰険で、今にも首を絞めに来そうな目だった。

「帰ったのか」

闇の中から届く声は、静かで、だからこそ恐ろしい。

「楽しかったか?」

「……授賞式に出ていただけです」

「授賞式?」

真琴は立ち上がり、一歩ずつこちらへ詰め寄ってくる。

高い影がたちまち絵里奈を覆い、酒の匂いと危うい熱が空気を満たした。

「俺が見たのは、反吐が出るような顔だけだ」

真琴は目の前まで来ると、厚化粧でも隠し切れない疲労の滲んだ顔を見下ろした。

脳裏に焼きついているのは、さっきまであの女に向けていた笑み。

眩しいほどに。

壊してしまいたくなるほどに。

「外ではずいぶん楽しそうに笑っていたな、絵里奈」

冷たい指が、彼女の口元に触れる。

ぐい、と強く擦った。

まるで、そこに残った笑みの痕跡ごと削ぎ落とすみたいに。

「家では死人みたいな顔をしているくせに、外では笑えるのか?」

そのまま指先が食い込み、顎を乱暴に掴み上げる。

真琴の唇に、意地の悪い笑みが浮かんだ。

「そんなに笑うのが好きなら――たっぷり笑わせてやる」

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