第8章
真琴の指が絵里奈の顎を掴み、無理やり顔を上げさせた。
「笑え」
リビングに落ちた声は静かで、だからこそ背筋が冷える。
「外じゃ、どうでもいい連中にあんなに愛想よく笑えるくせに。俺の前じゃ無理か? それとも、外で薄っぺらい才能を見せびらかしてる時だけ満たされるのか」
「言え!」
真琴の怒号が耳を刺す。
「昼間、どうして笑える? 佳奈は冷たい土の下だ。お前は殺した側だ。それなのに、くだらない虚栄のために名利の場で芸術だの何だの、笑って語るのか!」
仰け反らされる首筋に、引ききらないアレルギーの赤みが残っていた。襟が擦れて、ひりつくように痛い。
目の前の男は怒りで歪んでいる。絵里奈は唇を動かしたが、声にはならなかった。
何を説明する。
慰めただけだと? 本当は嬉しくないと?
真琴の目には、彼女の呼吸ひとつが罪に映っている。
「……黙りか」
真琴は鼻で笑い、乱暴に放り投げた。
絵里奈はよろめいて数歩下がり、背中を階段の手すりにぶつける。鈍い痛みが走った。
「そんなに過去が好きなら、古いものを抱えて無垢ぶるのが好きなら――まとめて清算してやる」
「くだらない『美しい思い出』で自分を飾りたいなら、手伝ってやる」
返事を待つことすらせず、真琴は階段を駆け上がり、彼女の部屋へ踏み込んだ。
絵里奈の血の気が引く。
あそこだ。
金庫――。
心臓を握り潰されるような恐怖に突き動かされ、足の痛みも構わず追いすがった。
「だめ……真琴、やめて……!」
間に合わない。
部屋へ飛び込んだとき、真琴はすでにクローゼットの奥の金庫を開けていた。
「やめて!」
絵里奈の叫びは、今夜初めて生き物の声になった。なりふり構わず飛びかかり、古びたブリキの箱を奪い返そうとする。
祖母の形見。
この世でいちばん自分を愛してくれた人が遺した手紙。
だが真琴のほうが速い。片手で箱を掴み、もう片方で絵里奈を突き飛ばした。
ドンッ!
床に叩きつけられ、額がベッドの脚に当たる。熱いものが流れ落ち、視界が一気に赤く染まった。
真琴は上から見下ろし、残酷に言った。
「それで耐えられないか? 佳奈を殺したとき、俺が耐えられたと思うな」
彼は箱を持ったまま、壁炉へ向かう。
炎は勢いよく燃え、絵里奈の怯えた瞳を赤く照らした。
真琴の口元が歪む。怯えるのか――この偽善者が。
「……真琴、お願い……」
絵里奈は手足を使って這い、泣き崩れた顔のまま縋りつく。涙と血でぐしゃぐしゃになりながら。
「おばあちゃんの手紙なの……それだけは……お願い……」
「今さら頼むのか?」
真琴は譲らない。
ブリキ箱を開け、中の黄ばんだ便箋を掴むと、彼女の目の前で腕を振り上げた。
ばさっ――
紙が舞い、壁炉へ落ちる。
炎が一瞬で飲み込み、跡形もなく焼き尽くした。
「やめて――!」
絵里奈の絶望の叫びが裂けた。火の中へ手を突っ込もうとした瞬間、真琴の靴が手の甲を踏みつける。
刺すような痛み。
だが心の痛みに比べれば、何でもない。
馴染んだ筆跡がくるりと丸まり、黒く焦げ、灰になって消えていく。
祖母が自分を愛した証が、今この瞬間、世界から消えた。
最後の支えが、ぷつりと切れた。
真琴は足を退け、冷たく言い放つ。
「覚えろ、絵里奈。この家でお前に私物を持つ権利はない」
「お前のすべて――記憶も含めて、俺のものだ」
空になった箱を投げ捨て、背を向ける。
扉が閉まる音だけが、やけに大きかった。
残された絵里奈は灰の前に這い寄り、空箱を抱きしめた。
泣き声すら殺して、ただ震える。
――自分が死ねばよかった。
自分は間違っている。死ぬべきだ。
……
翌朝。夜明け。
床から起き上がった絵里奈の血は乾き、腫れた目を見た使用人が息を呑んだ。
ここにはいられない。
冬月邸へ戻らなければ。
祖母の残りの形見――古いブローチとアルバムが、屋根裏にある。
真琴に思い出されれば、全部焼かれる。先に回収しなければ。
絵里奈は化粧もせず、着替えもせず、そのまま冬月邸へ向かった。
玄関扉を押すと、リビングには馴染みの香りが漂っていた。姉が生前使っていた香水と同じブランド。
シャンデリアの下。
ソファで花を生ける母冬月知代。隣には唐沢瑠璃が座っている。
白いシルクのロングドレス。黒髪を肩に流し、仕草も表情も――死んだ佳奈によく似ていた。
知代は瑠璃の手を握り、柔らかく笑う。
「まあ、瑠璃は器用ね。この花が本当に綺麗。どこかの子と違って」
「おばちゃん、そんな……」
瑠璃はおっとりと首を振る。
「佳奈お姉ちゃんの代わりに、少しでも親孝行をしたいだけです」
「いい子ね。あなたこそ、うちの娘でいてほしかったわ」
瑠璃は困ったように言う。
「絵里奈は、ちょっと子どもなだけで……」
知代は鼻で笑った。
「義兄と寝た娘なんて、うちにはいないわ」
その光景が、絵里奈の目を刺す。
母は、他人には温情を見せるのに、自分だけを踏みつける。
――でも自分は、死ぬべき人間だから。
絵里奈は玄関口で掠れ声を落とした。
「取りに来たものがあるの」
知代の笑みが消える。値踏みするように絵里奈を見て、冷たく嗤った。
「向こうで暮らせなくなった? 施しでも欲しいの?」
テーブルの残り花を掴み、茎も葉もまとめて投げつけた。
パシッ!
土のついた花屑がぶつかり、薔薇の棘が皮膚を裂く。赤い血がにじんだ。
「縁起悪い。一日の始まりから疫病神を見るなんて」
知代は白目をむく。
「よく戻ってこれたわね。私なら実の姉を殺したら、壁に頭をぶつけて死ぬ」
絵里奈は避けなかった。
視線も上げず、ただ俯いたまま階段へ向かう。まるで死体だ。
「待て」
威厳のある冷たい声が、階段口から落ちた。
父の冬月正明が立っていた。
絵里奈は足を止め、顔を上げる。
――せめて一言、どうしたのかと訊いてくれるのではないか。
ほんの一瞬、そう期待してしまった。
だが冬月正明は眉を寄せ、視線を首と腕の皮膚へ落とす。
アレルギーでただれた肌。
そこにあるのは心配ではなく、嫌悪だった。
「その有様は何だ」
壊れた物を評するような口調。
「皮膚が腐って、ヒキガエルみたいだな。それでどうやって真琴に取り入る? その汚い身体で狩野家のベッドに這い上がるつもりか」
心臓が、ぐしゃりと握り潰された。
これが家族。
地獄の夜を越えても、誰も生死など気にしない。父が気にするのは、売り物としての価値だけだ。
「……申し訳ありません、お父様」
絵里奈は俯いた。声は麻痺している。
「きちんと整えます」
「当然だ」
冬月正明は冷えたまま続ける。
「会社の案件で、狩野グループの出資が必要だ。嫁いだなら頭を使え」
「土下座でも、裸でもいい。必ず真琴に署名させろ」
「できないなら、二度とこの家に顔を出すな。冬月家は役立たずを養わない」
絵里奈の指先がわずかに震え、やがて力が抜けた。
姉の望みだ。やり遂げる。
「……はい。承知しました」
