第9章

絵里奈は従順だった。言い返しもしない。感情の色すら見せない。

冬月正明は、屋根裏へ向かう娘の背を見つめ、いっそう眉間を深く刻んだ。

昔の絵里奈は、こんなふうではなかった。

棘を隠した薔薇のような娘だった。

顎を上げて言い返し、瞳には火が宿っていた。負けを認めることなど、決してなかった。

なのに今は――あの絵里奈は、もう死んでしまったみたいだ。

残っているのは、言われるままに動く、生命の気配のない抜け殻だけ。

冬月正明の胸の底に、名づけようのない違和感がじわりと滲んだ。ただの疑念ではない。ほんの一瞬、かすかな不安さえ混じる。

噂が本当ならどうだ。

佳奈を死なせ、その代わりにこの縁談を手に入れたのなら、もっと得意げに、もっと甘い蜜を啜るように生きているはずだ。どうしてこんな、今にも死にそうな顔をしている。

だが、その考えは瞬きほどで消えた。

絵里奈が嫁いだ先で冬月家の力になれるなら、それでいい。

それ以上を考える必要はない。

冬月正明は背を向け、落ちぶれた後ろ姿から目を逸らした。

……

狩野邸へ戻っても、絵里奈は頬の切り傷に滲む血を拭おうとしなかった。

アレルギーで爛れた肌にも、手をつけない。

浴室へ入り、熱すぎずぬるすぎない湯を張る。

サンダルウッドの精油を二滴。

それから、厨房へ向かった。

姉が言っていた。

真琴は胃が弱い。会食のあとは、温かいボルシチを好む。仔牛のステーキはミディアムレア。

覚えておかなければならない。

姉の代わりに、自分が真琴の面倒を見るのだから。

絵里奈はエプロンの紐を結び、広々とした洋風のキッチンで静かに手を動かし始めた。

玉ねぎに目を焼かれ、涙が滲む。

その雫が塞がりきらない傷へ落ちても、痛みは不思議なほどなかった。

鍋の中ではスープがことことと音を立て、あたたかな香りが冷えきった大邸宅の隅々まで満ちていく。

夜8時。

庭先にエンジン音が響いた。

真琴が冷気をまとって扉を開ける。

玄関で靴を履き替えた瞬間、ふわりと鼻先をくすぐる料理の匂いに足を止めた。

それは、佳奈が生きていた頃にしか存在しなかった、

――家の匂いだった。

張り詰めていた神経が、ほんのわずかにほどける。

ダイニングへ向かうと、食卓にはすでに夕食が並んでいた。

焼き加減の見事なステーキ。つややかな色を湛えたボルシチ。

「田中佳代、腕を上げたな」

真琴は上着を脱いで椅子の背に掛け、席につく。

スプーンを取り、スープをひと口。

ほどよい酸味と甘みが、長い一日の疲れを静かに溶かしていく。

その表情がわずかに緩んだ。

ここ数日で初めて、まともな食欲が戻っていた。

――そのとき。

厨房の扉が開いた。

二口目を飲み込もうとしていた真琴の動きが、ぴたりと止まる。

視界の端に映った、灰色の影。

田中佳代ではない。

絵里奈だ。

姉を死に追いやった女。

恥も外聞もなくこの家に入り込み、良妻ぶって、自分の中に残る「家」への幻想まで汚そうとしている女。

吐き気がした。

「誰がこんなものに触っていいと言った」

真琴は勢いよく立ち上がり、そのまま腕を薙いだ。

ガシャーン!

熱いスープを満たした陶器の皿が、無惨に床へ叩き落とされる。

砕け散った破片が絵里奈の足元で跳ね、煮えたぎるスープが脛と足の甲へ飛び散った。

赤い発疹の浮いた腕にも、容赦なく降りかかる。

「っ……」

絵里奈の肩がびくりと震えた。

熱い。

痛い。

火傷した皮膚はみるみるうちに赤く染まり、水ぶくれが浮かび上がる。

それでも彼女は悲鳴を上げなかった。

唇をきつく噛み、漏れかけた呻きごと飲み込む。

「俺の前で芝居をするな」

真琴は見下ろした。目の底にあるのは怒りだけ。

「そんな殊勝な顔を見せられると、今食ったものまで吐きそうになる。料理を作れば罪が消えるとでも思ったのか。俺に取り入れば、お前がどうやってこの家に入り込んだか忘れるとでも?」

絵里奈は答えない。

飛び散ったスープを拭いもしなかった。

ただ静かに腰を折り、床の惨状を片づけ始める。

指先を伸ばし、砕けた皿の破片を拾う。

痛みのせいで、手が少し震えていた。

鋭い縁が指腹を裂く。

ひゅっ、と息が詰まる。

指先から血が滲み、ぽたりとスープの中へ落ちた。

赤と赤が混ざり合い、ぞっとするような色を作る。

それでも絵里奈は、まるで痛みを感じていないかのように、二つ目の破片へ手を伸ばした。

その上に、革靴がぬっと現れる。

真琴の靴底が破片ごと、彼女の手を踏みつけた。

「あっ……!」

絵里奈が小さく声を漏らす。

引こうとしても、びくともしない。

欠片が肉に食い込み、その上から靴底がぐり、と容赦なく押しつけられた。

悲鳴が喉までせり上がった。

「触るな」

頭上から降る声は、凍りつくほど冷たかった。

「お前みたいな汚い手で、ここを片づけるな。そのまま腐らせておけ。お前自身みたいにな」

真琴が足をどける。

血まみれになったその手を見ても、胸は少しも晴れない。

むしろ、言いようのない苛立ちが募るばかりだった。

絵里奈は床に膝をついたまま、震える手をそっと引き寄せた。

そして、顔を上げる。

その目には、恨みもない。

悔しさもない。

ただ、底の抜けた空洞だけがあった。

「真琴」

掠れた声で、彼女は言った。

「冬月グループに、出資が必要なの」

空気が、凍りつく。

真琴は一瞬だけ呆け、それから鼻で笑った。

「……結局、それか」

腰を落とし、蒼白な顔をした絵里奈を真正面から睨みつける。

「飯を作って、風呂を用意して、可哀想な女の顔をして、俺に侮辱されても黙って耐える。全部、金のためか?」

「そう」

絵里奈は即座に答えた。

ためらいは、ひとかけらもない。

「あなたが署名してくれるなら、何でもする」

姉は、自分にこの男を託した。

この男を支え、家を立て直せと願った。

たとえかつて真琴を想っていたとしても、今の自分が果たすべきものは、姉の遺志だけだ。

姉が愛した男を、自分が欲しがる資格などあるはずもない。

尊厳?

そんなものは、姉が死んだあの日に一緒に埋めた。

「大した根性だな」

真琴の声に、どす黒い怒りが滲んだ。

金のためなら何でも差し出す。

その姿が、ひどく醜く、ひどく腹立たしい。

彼は絵里奈の襟元を乱暴に掴み上げ、そのまま冷たい壁へ叩きつけた。

「金のためなら、面子も何も捨てられるのか?」

充血した目が、至近距離から射抜く。

鼻先が触れそうなほど近い。

「さっきまで、熱湯を浴びせられても、手を踏まれても黙ってたくせに。金の話になった途端、口を開くのか」

「お願い……」

無理やり顎を上げさせられながらも、絵里奈の眼差しは空っぽのままだった。

「冬月家を、助けて」

真琴はその顔を見た。

佳奈によく似た輪郭。

なのに中身は泥のように汚れている気がして、たまらなく不快になる。

佳奈は気高かった。

折れず、媚びず、誇りを失わない女だった。

なのに目の前のこれはどうだ。

踏まれようが焼かれようが、泥の中を這ってでも目的を果たそうとする。醜く、卑しく、救いようがない。

――だが、その瞬間。

額に滲む冷や汗。

限界まで痛めつけられてなお、頑なに閉じようとしない瞳。

真琴の鼓動が、不意にひとつ狂った。

その目だ。

佳奈が結婚式の日、自分を突き放したときの、あの決然とした目に、あまりにも似ている。

くそ。

また佳奈の真似か。

そんなところまで奪うのか。

「その目で俺を見るな!」

真琴は激昂し、勢いよく手を振り上げた。

振り抜かれる掌の風が、絵里奈の頬をかすめる。

けれど絵里奈は避けなかった。

まばたきひとつ、しない。

ただ静かに彼を見つめていた。

打たれるのを待つように。

それが当然の罰だとでもいうように。

真琴の手が、空中で止まる。

その死んだような瞳を前にすると、どうしても振り下ろせなかった。

殴る?

今の絵里奈は、まるで死体だ。

殴ったところで痛みも恥も届かない。何ひとつ手応えがない。

そのどうしようもない無力感が、真琴を狂わせる。

彼は舌打ち混じりに手を引き、代わりに絵里奈の耳元の壁へ拳を叩き込んだ。

ドンッ!

壁が震え、細かな埃がぱらぱらと落ちる。

「金が欲しいんだろ」

歯を食いしばった声は、喉の奥から無理やり搾り出したようだった。

「そこまで耐えられるなら、何でもやれるなら――遊んでやる」

真琴は手を放し、触れたことさえ不快だと言わんばかりに服の上で指を拭う。

「明日の夜、俺について来い」

乱れた襟元を整え、いつもの冷たく傲慢な顔に戻った。

「冬月家のために、お前がどこまで堕ちられるか見せてもらう」

「俺を満足させたら――あの潰れかけの会社に、骨の一本くらい投げてやる」

絵里奈は壁にもたれたまま、ゆっくりと床に座り込んだ。

脚の火傷はさらに熱を増し、手からはまだ血が滴っている。

それでも、彼女は小さく頷いた。

「……わかった」

答えは、それだけだった。

どこへでも行く。

たとえ死ねと言われても。

姉の遺志を果たすために。

この身の罪を、少しでも贖うために。

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