第2章

 引き金にかかった指が強張り、凍りついたように動かない。

 血の海のように広がる赤い絨毯の上で、下っ端の男が土下座して泣き叫んでいる。

「姉さん、わざとぶつかったんじゃないのです……頼む、許してくれ……!」

 黒木琉生の大きな掌が私の手を包み込み、じわじわと力を込めてくる。

「美晴」

 胸の奥底から転がり出たような、低く重い声。

「何を躊躇っている?」

 奥歯を噛み締める。涙で視界が歪んだ。

 引き金を引けば、人殺しだ。

 だが引かなければ、黒木琉生は私がさっき「真実」を聞いてしまったと疑うだろう。

「む……無理よ……」

 声が激しく震える。

「琉生、私にはできない……本当に無理……」

 彼の手の動きが、一瞬止まる。

 次の瞬間、私の手から彼の手が離れた。

「いい」

 唐突に声色が優しくなり、そこには幾分かの呆れと、甘やかすような響きが混じった。

「そうだな。美晴は情が深い。わかっていたことだ」

 その口調に、張り詰めていた糸が切れった。全身の力が抜け、その場に崩れ落ちそうになった。

 彼は信じたのだ。私が何も聞いていないと。

 黒木琉生は私から銃を受け取ると、私の手首を掴み、彼の手と共に再び引き金に指をかけさせた。

「だがな」

 彼は私の耳元で囁く。

「俺の女を粗末に扱う奴は、生かしておけない」

 ドンッ——。

 乾いた銃声が炸裂した。

 男の体が重々しい音を立てて倒れる。頭部から溢れ出した鮮血が、赤い絨毯に暗い染みを作っていく。

 生温かい液体が、私の頬に跳ねた。

 胃液がせり上がり、背筋が冷たい汗で一気に濡れる。

「いい子だ」

 黒木琉生はハンカチを取り出し、私の頬の血を愛おしげに拭った。

「これからは誰かに虐められたら、すぐに俺に言うんだぞ」

 その指が私の頬を撫でる。

「ところで、検査の結果は出たのか?」

 私は足元の死体を凝視した。喉の奥から鉄錆のような味がこみ上げる。

 もし、できていないと言ったら……。

 私も彼のように、この血の海に沈むことになるのだろうか。

「できたわ」

 自分の声が、どこか遠くから漂ってくるように聞こえた。

「今日、医者から連絡があったの」

 黒木琉生の瞳が輝いた。

 彼は私を抱き寄せ、肋骨がきしむほどの強さでその身に閉じ込める。

「よくやった、美晴。今度こそ、俺が絶対に君と子供を守ってみせる」

「すぐに最高のベビーシッターを手配しよう」

 彼は私の体を離し、真剣な眼差しを向けてきた。

「今回は、何があっても無事に産ませるんだ」

 また涙が溢れてきた。

 以前なら、感動で泣いていたはずだ。彼が本当に私を愛し、子供を望んでいるのだと信じて。

 だが、今は知っている。

 彼が望んでいるのは、妹が天野家での地位を固めること。

 彼が守りたいのは、天野晴彦の子。

 私はただの、歩く命の器でしかない。

 翌日、すぐにベビーシッターがやってきた。

 田中という四十代の女で、多くの名家で子供の世話をしてきたという。

「奥様、赤出汁のお味噌汁です。栄養豊富で、妊婦さんには特に良いですよ」

 田中が盆に載せた椀を私の目の前に置く。

 汁の色は、鮮烈な赤。

 その色が、目に突き刺さる。

 血だ。

 あたり一面の血。

 頬に跳ねた血、絨毯を濡らす血、あの罪のない男の頭から吹き出した……。

「うっ、えっ——!」

 私は洗面所に駆け込み、胃の中身をすべてぶちまけた。

「奥様?」

 ドア越しに田中の声がする。

「大丈夫ですか?」

 洗面台にしがみつき、胃の痙攣に耐える。

 もう、赤い食べ物は一切受け付けない。

 赤を見るたびに、あの血だまりがよみがえってくるのだ。

 だが、黒木琉生には言えない。

 言えば、彼が田中を殺してしまうかもしれないから。

 田中は私の拒絶を察したのか、態度を硬くし始めた。

「奥様、好き嫌いは許されません」

「奥様、そのような我儘で、お腹のお子様に申し訳ないと思わないのですか」

 夕食には、海老が出された。

 私は甲殻類アレルギーだ。

 しかし彼女は冷たく言った。

「奥様はそうやって言い訳ばかり。黒木様に報告させていただきます」

 すぐに黒木琉生が戻ってきた。

 ベッドサイドに腰を下ろした彼の顔は、陰鬱に曇っている。

「美晴、何を駄々をこねている? 腹の子を餓死させるつもりか」

「違うの……」

 声が枯れて出ない。

 彼の指が私の顎を万力のように掴む。痛い。

「以前の子供たちが育たなかったのも、結局はお前がちゃんと産む気がなかったからじゃないか!」

 その言葉は、刃物となって心臓を抉った。

 私は二度、流産している。その度に、身が引き裂かれる思いだったのに。

 それを今、彼は私を責める道具にするのか。

「口を開けろ」

 彼が椀を手に取る。

「俺が食わせてやる」

「琉生、本当に……」

「開けろ!」

 一口、また一口と、料理が無理やり口の中に押し込まれる。

 喉が焼けつくように腫れ上がり、呼吸ができない。

 視界が急速に暗転していく。

 最後に見たのは、驚愕に染まる黒木琉生の顔と、遠くで鳴り響く救急車のサイレンだった。

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