第1章
午後三時十五分、私は白峰医療センターの診察室を出た。手には薄っぺらい診断書を握りしめている。
『膵臓癌、末期です』先生の言葉がまだ耳に残っている。その手慣れた同情の声音に、思わず笑ってしまいそうになった。余命は三ヶ月から半年、すぐに家族に知らせ、治療方針を立てるようにと彼は言った。
私は苦笑いを浮かべて首を振った。「信じてくれないでしょうから」
先生は一瞬、言葉を失った。きっと私が戯言を言っているとでも思ったのだろう。自分の子供が死にかけていると聞いて、気にしない家族などいるはずがない、と。
もし彼が花崎家の人々に会ったことがあれば、そんな風には思わなかっただろう。
病院の玄関を出ると、秋の日差しが目に染みた。
空を見上げる。今日は十月十八日、私の二十歳の誕生日。二十年前の今日、母の美和は私を産んだ。でも、きっと母はもうこの日付なんて忘れてしまっただろう。なにせ、「問題児の娘」である私よりも、心配すべき大切なことがあるのだから。
由香里の合格通知、とかね。
私は死刑宣告書を握りしめたまま、通りにしばらく立ち尽くした。どこへ行けばいいのか、分からなかった。
まず、自分でケーキでも買って、最後の誕生日を祝うべきだろうか。
でも、たった一人でケーキを前に願い事をするなんて、あまりにも馬鹿馬鹿しい。何を願うというの? 家族が私の誕生日を覚えてくれていますように? この診断が嘘でありますように? それとも、今年のクリスマスまで生きられますように?
やめよう。家に帰ろう。もしかしたら、みんな覚えていてくれたのかもしれない。私が考えすぎなだけかも。ドアを開けたら、母が作ったバースデーケーキがあって、「紗奈、お誕生日おめでとう」って歌ってくれるかもしれない。この酷い知らせを伝えたら、父の亮は私を強く抱きしめてくれて、母は泣きながら「大丈夫よ、一緒に乗り越えましょう」って言ってくれるかもしれない。
そんな最後の希望の欠片を胸に、私はゆっくりと家路を辿った。
ドアにたどり着く前に、中から笑い声が聞こえてきた。心臓が跳ねる――もしかして、サプライズパーティー?
深呼吸をして、ドアを押し開けた。
「由香里、すごいじゃない! 桜原大学に推薦合格なんて!」。母が、リビングの中心に立つ由香里の写真を撮りながら、甲高く興奮した声で言った。
私は玄関先で凍りついたまま、その光景を眺めていた。リビングにはカラフルなガーランドが飾られ、コーヒーテーブルの上にはピンクのバースデーキャンドルが立てられたお洒落なケーキが置かれている。
父はシャンパングラスを掲げ、誇らしげに満面の笑みを浮かべている。二人の兄、悟と蒼井も由香里を取り囲み、口々に彼女を褒めそやしている。
「うちのお姫様が一番だって、父さんはずっと知ってたぞ!」。父は満面の笑みだ。
由香里は、まるで絵本から抜け出した本物のお姫様のように、ピンクのドレスを纏って部屋の中心に立っていた。そのいつもの甘く無邪気な笑顔は、周囲の光を全て吸い込み、彼女自身を輝かせている。星屑を散りばめたかのような瞳は、そこに集う人々の視線を磁石のように引きつけ、一瞬たりとも離さない。
私は、透明な壁に隔てられたかのように、玄関の隅に立ち尽くしていた。この楽しげな喧騒は、私には届かない。誰も、私が帰ってきたことに気づかない。誰も、私の存在に、微塵も関心を払わない。
「今日、私の誕生日なんだけど」。お祝いムードの中、私の声はあまりにもか弱かった。
「パパ、ママ、見て、私すごいでしょ!」。由香里が突然、父に抱きついた。蜜のように甘い声だ。「一生懸命勉強したんだから。ご褒美、くれるよね?」
私の声は、完全にかき消された。
リビングに足を踏み入れ、私はもう少しだけ大きな声で言った。「今日、私の誕生日なんだけど」
ようやく私の声に気づいた母は、けれど、いらだたしげに一瞥をくれただけだった。「紗奈、いい加減にしなさい。今日は由香里が主役なのよ。たまには人のことを考えられないの?」
「でも……」私は診断書を取り出した。その手は、微かに震えていた。「私、癌なんだって」
リビング全体が一瞬静まり返った後、父が眉をひそめた。「またそれか。紗奈、いい加減にしないか。由香里に何か良いことがあるたびに、お前は騒ぎを起こす。病気のふりをして注目を浴びるのが、そんなに楽しいのか?」
「ふりじゃない!」私は診断書を高く掲げた。「これは本物の診断書よ、末期の膵臓癌。あと三ヶ月から半年しか生きられないって!」
母はそれに目をやろうともせず、由香里のドレスを直すほうに向き直った。「紗奈、本当にがっかりだわ。由香里は一生懸命努力して、良い結果を出したのに、お祝いするどころか、わざと雰囲気を壊して。何なの、これ。インターネットで印刷した偽物の診断書?」
「紗奈お姉ちゃん、私のこと嫉妬してるんだと思う」。由香里は無垢な大きな瞳をぱちくりさせ、傷ついたような響きを声に含ませた。「でも、私が優秀なのは仕方ないことだもの。私を責めないでね、お姉ちゃん?」
嫉妬?ふざけるな! 彼らはこれが嫉妬のせいだとでも思っているの?
「由香里の言う通りだ」悟が同意して頷く。「紗奈、お前ももう二十歳だろ。少しは大人になれないのか?」
「まったくだ。いつも注目を奪い合ってどうするんだよ」。蒼井も口を挟む。「由香里はすごいんだぞ、たった十七歳で桜原大学に合格するなんて」
私は彼らを見つめた。私を一番愛してくれるはずの人々、彼らは失望と、苛立ちと、非難に満ちた目で私を見ていた。まるで私が注目を浴びたがる道化師か何かであるかのように。
「本当に、癌なの」。私は最後の試みとして、もう涙で詰まった声で言った。「今日、私の誕生日なの。今日で二十歳になったの」
「もういい!」。父の声が、途端に厳しくなった。「自分の部屋に行け! これ以上、雰囲気を壊すんじゃない!」
「紗奈、あなたって子は!」母も今や怒っていた。「今日は由香里のお祝いなのよ。どうしてこんなことができるの? 由香里がどんなに悲しんでいるか見てみなさい!」
由香里のほうを見ると、彼女は確かに目に涙を溜め、誰の心をも締め付けるほど可哀想な表情を浮かべていた。
「そんなつもりじゃなかったの、お姉ちゃん」。由香里は涙を浮かべながら、か細い声で言った。「私の桜原大学合格がお姉ちゃんを不幸にするなら、私、辞退するから」
くそ、完璧な被害者。いつも私を悪役に見せる。
「とんでもない!」母はすぐに由香里をかばった。「紗奈の理不尽な振る舞いのせいで、どうして由香里がこんな素晴らしい機会を諦めなきゃいけないの? 桜原大学よ! どれだけ多くの人が夢見る学校か!」
誰もが由香里のために声を上げ、誰もが私を責めていた。私は診断書を固く握りしめ、心臓がずたずたに引き裂かれるような感覚に襲われた。
「部屋に行け!」父が階段のほうを指差した。「反省して、謝る気になったら戻ってこい!」
私は背を向け、階段に向かって歩いた。一歩一歩が拷問のようだ。背後から、母が由香里を慰める声が聞こえた。「あの子は放っておきましょう。お祝いの続きよ。さあ、願い事をして」
私は自分の部屋に駆け込み、ドアを叩きつけた。彼らの笑い声が、背中に突き刺さる短剣のように感じられた。
ベッドの端に腰掛け、手の中の診断書を見つめる。涙で文字が滲んでいく。
死、それはもしかしたら、最悪の選択ではないのかもしれない。少なくとも、もう彼らの失望に歪んだ顔を見る苦痛から解放される。少なくとも、愛される価値があることを、これ以上、必死に証明し続ける必要はないのだ。
重い足取りで引き出しを開ける。その奥から、いつもは無造作に荷物を開梱するのに使っていたカッターナイフを取り出した。鈍い銀色の刃が、部屋の僅かな光を捉え、ぎらりと反射する。その鋭利な輝きは、私の人生の終焉を告げる、最後の光のように思えた。
階下から、また笑い声が聞こえてくる。
手首を持ち上げ、皮膚の下にある細い血管を見つめる。一思いに切り裂けば、すべての痛みが終わる。
刃が皮膚に触れた瞬間、私は目を閉じた。
「お誕生日おめでとう、紗奈」
私から私への、最後の誕生日プレゼント。
