第4章
目を開けた瞬間、夢を見ているのだと思った。
思い描いていた天国とは違い、そこに広がっていたのは、今まで見たこともないほど立派な病室だった。
身を起こそうとして、自分がどんな五つ星ホテルよりも快適なベッドに横たわっていることに気づく。手首には専門的な手当てが施された包帯が巻かれ、点滴のチューブが高価そうな医療機器に繋がっていた。
ここは間違いなく、普通の病室ではなかった。
ナースコールを押そうとした、ちょうどその時。静かにドアが開き、真っ白な制服に身を包んだ中年の看護主任が、業務用の笑みを浮かべて入ってきた。
「黒川さん、お目覚めですか」彼女は私の点滴を確認しながら言った。「恋人の方が、とても心配していらっしゃいましたよ。一晩中ここに付き添ってくださって。黒川様が、白峰市で最高のがん治療の専門チームを手配してくださいました」
「黒川?」私は混乱して瞬きをした。「私は.......」
「今の容態では絶対安静が必要です」看護師は私の問いを完全に無視して続けた。「専門医によりますと、がんは比較的早期に発見されたとのことです。最先端の治療計画を組めば、予後は当初の予想よりずっと良好だそうですよ」
待ってよ、これはいったい.......
説明しようと口を開いたが、言葉が出てこない。黒川? 黒川って誰?
看護師が部屋を出ていこうとした、その時。再びドアが開き、直哉が上品なトレイを手に現れた。彼は昨夜のスーツから、シンプルな白いシャツと濃い灰色のパンツに着替えており、カジュアルながらも洗練された印象だった。
「目が覚めたんだね」その声には、はっきりと安堵の色が滲んでいた。「黒川直哉だ。昨夜、病院に登録するとき、君の恋人だと名乗った」
私は耳を疑い、目を見開いた。「どうして……どうしてそんなことを?」
直哉はベッドサイドのテーブルにトレイを置いた。そこには、新鮮なフルーツと手作りの焼き菓子、そして香り高いコーヒーが乗った、いかにも高価そうな朝食が並んでいる。彼はベッド脇の椅子に腰を下ろし、私のことをじっと見つめた。
「助けが必要に見えた」彼の声は穏やかだが、きっぱりとしていた。「そして、僕なら君を助けられる」
心臓が速鐘を打つ。それが彼の言葉のせいなのか、それとも、誰かに守られるという感覚があまりに自分とかけ離れたものだったからなのか、分からなかった。何か言い返そうとした瞬間、廊下がにわかに騒がしくなった。
聞き覚えのある声――母である美和の、涙ながらの懇願だった。
「娘が本当に入院しているんです! どうか会わせてください!」
ドアの隙間から、私の両親、そして家族たちの姿が見えた。心配と罪悪感を浮かべた顔で、みんな来てくれたんだ。
しかし、病院の警備員が彼らの行く手を阻んでいた。
「申し訳ありませんが、こちらには黒川紗奈様しかいらっしゃいません」警備員は丁寧だが、毅然とした口調で言った。「それに、黒川様ご本人から、どなたとも面会しないようにとのお申し付けです」
「黒川?」亮は混乱して眉をひそめた。「我々が探しているのは花崎紗奈だ。私たちはあの子の家族なんだぞ!」
「申し訳ありません。そのお名前は名簿にございません」
母が泣き崩れるのが見えた。「そんなはずない! 娘は本当に死にかけてるのよ! 全部、私のせいなの、私のせいで……!」
由香里が、涙を流しながら母をきつく抱きしめる。「紗奈、お願い、許して! 私たちが間違ってた!」
何よりも私を衝撃に陥れたのは、父だった。父は膝から崩れ落ち、自分の顔を力任せに何度も平手打ちしていたのだ。
「全部俺のせいだ! 俺は父親失格だ!」その一発一発は重く、乾いた音が廊下に響き渡った。
こんな父の姿は、生まれてこの方、一度たりとも見たことがなかったのだ。父は、いつだって私たちの家庭の中心に君臨し、絶対的な権威として君臨していた。
その威厳ある背中は、どんな困難にも屈することなく、誰かに頭を下げることなど、決して許さない、そんな誇り高き男だったはずなのに。
胸が締め付けられた。がんのせいではない。彼らの姿を見てしまったからだ。たとえ私を傷つけたとしても、彼らは私の家族だった。
私が起き上がろうとすると、直哉の手がそっと私の肩を押さえた。
「行くな」彼の目は冷たくなっていた。「もう十分に傷つけられただろう」
そう言うと、彼は立ち上がってドアに向かった。彼がドアを開けると、廊下全体が水を打ったように静まり返った。
直哉は戸口に立ち、私の家族一人一人に視線を走らせた。彼の纏う何かが、彼ら全員を黙らせた。
「君たちが紗奈の家族か?」その声は氷のように冷たかった。
亮が慌てて立ち上がり、必死な声で言った。「はい、私たちが紗奈の家族です。どうか、娘に会わせてください……」
「家族?ふざけるな」直哉は冷たく笑った。「彼女はもうあんたたちの娘じゃない。あんたたちが彼女を見捨てたんだ」
美和が涙ながらに説明しようとした。「私たちは、娘が本当に病気だなんて知らなくて、ただ……」
「ただ、何だと?」直哉は彼女の言葉を遮り、鋭い視線を向けた。「昨夜、彼女ががんだと告げた時、あんたたちは何と言った?」
亮が小声で答えた。「私たちは……嘘だと思ったんです……」
「嘘?」直哉の声には怒りが満ちていた。「二十歳の娘が病院の診断書を見せて、死ぬんだと言っているのに、最初の反応が不信だと?」
「本当に知らなかったんです……」美和はさらに激しく泣いた。
「知らなかった?」直哉は一歩近づいた。「じゃあ言ってみろ。彼女が手首を切って見せた時、あんたたちは何と言った?」
廊下は完全に沈黙した。
「言え!」直哉は声を張り上げた。「偽物の血だと言ったか? 芝居はやめろと言ったか? 他所で死ねと言ったか?」
その言葉一つ一つに、彼らはびくりと体を震わせた。由香里は口を覆い、恐怖に満ちた目で直哉を見つめた。「どうして……どうして私たちが言ったことを知ってるの?」
「彼女が教えてくれたからだ」直哉は冷ややかに言った。「彼女が、家族に一番信じてほしいと願った時、あんたたちは疑いを選んだ。彼女が血を流して痛みを証明した時、あんたたちは嘲笑を選んだ。今、なぜ僕があんたたちを彼女に会わせないか、理解できたか?」
「私たちは……知らなかったんだ……」亮の声は震えていた。
「知らなかった?」直哉の声はさらに冷たさを増した。「彼女が自分を傷つけても、あんたたちはそれを偽物だと言った。信じてくれと懇願する彼女に、他所で死ねと言い放った。それが、あんたたちの言う愛情か?」
美和は泣きじゃくって言葉も出ない。悟と蒼井はうつむいたままで、誰の顔も見ることができなかった。
直哉は警備員の方を向いた。「この人たちを外へ連れ出してください。ここは彼らがいていい場所じゃない」
「待ってください!」亮が必死に一歩前に出た。「どうか、償いをさせてください。私たちが間違っていたことは分かっています!」
直哉は足を止め、振り返って彼らを見た。「償い? 死にゆく若い女性の、打ち砕かれた心に、一体何が償える? 家族に見捨てられて過ごした十年間を、何が埋め合わせられる?」
彼の言葉は、彼らの心に突き刺さった。
「今日から、彼女は僕の家族だ」直哉は最後にそう告げると、踵を返し、背後で力強くドアを閉めた。
部屋は再び静寂に包まれ、廊下から遠ざかるすすり泣きの音だけが聞こえていた。
私はベッドに座ったまま、目に涙を溜めていた。こんな風に、誰かに無条件で守られると感じたのは、生まれて初めて、本当に、初めてだった。
直哉は再び私の隣に腰を下ろし、そっと私の手を取った。
「どうして、死にかけてる見ず知らずの人に、そんなに優しくしてくれるの?」私は震える声で尋ねた。
彼は一瞬黙った後、優しく私の髪を撫でた。「誰だって、一度くらいは、自分を大切に思ってくれる人がいるべきなんだ」
私はもう涙をこらえることができず、彼の手を強く握りしめた。二十年間生きてきて、こんな感情は一度も味わったことがなかった。
死だけが、唯一の結末ではないのかもしれない。
本当に、私の家族になってくれる人がいるのかもしれない。
