第2章
葵視点
それから二週間、私は速水湊司からの連絡を一切拒絶し、まるで外界から隔絶されたように、新居のマンションに閉じこもった。生きる気力すら失い、出前でかろうじて命を繋ぐ、廃人のような日々。
しかし、そのすべてを打ち砕く、運命の朝が訪れた。
突然、胃の底から突き上げるような激しい吐き気に襲われ、私は反射的にトイレへ駆け込んだ。便器に顔を突っ込み、何度も何度も胃液を吐き出そうとするが、喉がひきつるばかりで、何も出てこない。
「おかしい……最近、体調を崩すなんて滅多にないのに……変なものも食べてないはず……」
その疑問が、凍りつくような、ある可能性を私の意識に叩きつけた。
「まさか……そんなはずは……」
震えが止まらない手で、棚の奥から引っ張り出した妊娠検査薬。パッケージを破る音すら、やけに大きく響く。息を止めて、指示通りに試したその瞬間、周囲のあらゆる音が遠のき、世界は無音の空間と化した。
視線の先にあったのは、くっきりと浮かび上がった、二本の赤い線。
「嘘……ありえない……」
現実を受け入れられず、私は狂ったように、別の検査薬を次々と試した。しかし、そのどれもが、同じ、鮮烈な赤い線を突きつけてくる。それはまるで、私の浅はかさと、この悲劇的な運命を、あざ笑うかのように。
崩壊した私の世界に、図らずも宿った新たな命。それは、私を更なる絶望の淵へと突き落とす、あまりにも残酷な真実だった。
「なんてこと……」私は冷たいタイルの上に崩れ落ちた。「こんな時に……どうすればいいの?」
『彼はもう、あの人を選んだんだ。みっともない女にはなれない。でも、この子には……この罪のない子には……』
一方、湊司は人生で最も苛烈な二週間を過ごしていた。
「彼女は見つかったのか」四十八時間不眠不休の湊司が、電話に向かって怒鳴りつけた。
私立探偵の霧島蓮が答える。「申し訳ありません、速水さん。彼女は完全に姿をくらましたようです。行きそうな場所はすべて確認しましたが」
「探し続けろ!」湊司はデスクを叩きつけ、コーヒーカップを跳ねさせた。「忽然と姿を消したなんて信じられるか! 必要なら白鷺市をひっくり返してでも見つけ出せ!」
「承知いたしました」
電話を切り、湊司はソファに崩れ落ちた。彼の豪邸は不気味なほどがらんとして、どの片隅にも葵の面影がちらついていた。
『なぜ、すべての連絡をブロックしたんだ? 俺はただ、説明したかっただけなのに……あの夜、なぜあんなことを言ったのかを……』
『クソッ!』彼は激しく髪を掻きむしった。あの瞬間、傷ついた美琴を見て、咄嗟に彼女を守ろうとしてしまった。長年の習慣が、隣にいたもっと大切な女性の存在を忘れさせていたのだ。
『なぜあんな言い方をした? なぜ俺は、皆の前で葵を辱めたんだ?』
だが、もう遅い。彼女は説明の機会さえ与えてくれない。
一週間後、私はようやく病院を訪れる勇気を出した。
『いっそ、すべてを終わらせて……やり直そうか』
しかし、検査結果を見た神谷紗羅先生の表情は険しいものに変わった。
「杉原さん、とても重要なお話があります」神谷先生は眼鏡を外した。「あなたの体質では、この妊娠を中絶した場合、今後の妊娠が望めなくなるだけでなく、あなたの命に関わる可能性があります」
『え……?』
「子宮の壁が通常より著しく薄い、子宮壁菲薄化という症状です。強制的な中絶は、大出血のリスクが極めて高いのです」
目の前が真っ暗になった。『つまり……私はこの子を産むしかないってこと?』
診察室を出て、私は呆然としていた。病院のロビーで、ふと聞き覚えのある声がした。
「杉原葵さん?」
振り返ると、そこにいたのは一番会いたくない人物、速水紗世。湊司のお母様で、私のことを常々快く思っていなかった社交界の華だ。
彼女は高価な黒いカシミアのコートをまとい、エルメスのバッグを手に、傲慢な空気を放っていた。
「速水さん……」私は無理に笑みを作った。
彼女の鋭い視線が私の全身を舐めるように見つめ、やがて私の手にある病院の書類で止まった。
「産婦人科の検査?」彼女は信じられないといった口調で尋ねた。「あなた、妊娠しているの?」
『終わった』
「いえ、私は……」
「私と来なさい」紗世の口調は、有無を言わせぬ響きを持っていた。
病院のカフェの片隅で、彼女が優雅にコーヒーをかき混ぜる傍ら、私は神経質に冷や汗をかいていた。
「湊司の子?」彼女は単刀直入に尋ねた。
私は頷いた。否定しても無駄だと思ったから。
紗世はカップを置き、その目に嫌悪を浮かべた。「あなたのような女は簡単に諦めないと思っていたわ。今度は子供を盾に彼を脅すつもり?」
「誰も脅してなんかいません」私は平静を保とうと必死だった。「彼にはまだ話してもいません」
「結構よ」彼女は鼻で笑った。「なら、一生言わないでちょうだい。その子はすぐに堕ろしなさい」
「嫌です」私はためらわずに拒んだ。「お医者様から、私の体質では許されないと……命に関わる可能性があると言われました」
紗世の表情がさらに冷たくなった。彼女が助手に合図すると、三十分もしないうちに書類が作成され、テーブルの上に恭しく置かれた。
「では、別の提案をしましょう。その子は産んでいいわ。でも、白鷺市を離れて、二度と戻ってこないこと」
「もし断ったら?」私は彼女の目をまっすぐに見つめた。
彼女はスマートフォンを取り出し、あるフォルダを開いた。「お父様、杉原蓮司さんの建設事故で作業員が二人亡くなっているわね。今のところ、民事賠償だけで済んでいる。でも……」彼女は言葉を切った。「これを刑事事件にすることもできるのよ。業務上過失致死、最低でも懲役十年ね」
『え……?』血の気が引いていくのが分かった。
「どうして……そんなことができるんですか?」
「息子の未来のためなら、なんだってするわ」紗世は嘲笑した。「湊司に相応しいのは美琴よ。家柄も、育ちも、能力も。それに比べてあなたは……」彼女は侮蔑の眼差しで私を見た。「あなたはただの過ちなの」
私の手は固く握りしめられ、爪が手のひらに食い込んでいた。
「これが契約書よ」彼女は分厚い書類を押しやった。「これにサインして、1億円を受け取って去りなさい。断れば、明日にはお父様が逮捕されるわ」
震える手で契約書を開くと、一つ一つの条項が私の心を突き刺した。
『乙(杉原葵)は、甲の息子である速水湊司に対し、妊娠の事実を決して明かさないことを約束する……』
『乙は、白鷺市を離れ、速水湊司の前に二度と姿を現さないことを約束する……』
『乙は、速水家に対する一切の権利および請求権を放棄する……』
「決める時間は一時間あげるわ」紗世さんは立ち上がり、私を見下ろした。「覚えておきなさい、これがあなたの唯一の選択肢よ」
一時間後、湊司は自宅の書斎で不機嫌に座っていた。暖炉の火が燃えているが、彼の内面の寒さを温めることはできない。
母である紗世が、優雅に紅茶を運んで入ってきた。
「湊司、話があるの」
「母さん、今は何も話す気分じゃないんだ」湊司は顔を上げなかった。
「葵のことよ」紗世は向かいのソファに腰掛けた。「あの子なら、もういないわ」
湊司は勢いよく顔を上げた。「どういう意味だ?」
「お金を受け取って出て行ったの」紗世は銀行の振込記録を取り出した。「1億円。どうやら、あなたにはその程度の価値しかなかったようね」
「ありえない!」湊司は書類をひったくり、思わず立ち上がった。「彼女はそんな人間じゃない! 葵がそんなこと……」
「銀行の記録は嘘をつかないわ、湊司。これで分かったでしょう、あの子がどんな女だったか。最初からあなたのお金が目当てだったのよ」
湊司は振込記録を睨みつけた。受取人として、はっきりと「杉原葵」の名前が記されている。
「どうして……こんなにも人を見る目がなかったんだ?」彼の声には、痛々しいほどの失望が滲んでいた。「三年だ……丸三年も……」
紗世は、息子の苦悶する姿を、満足感を隠しながら見つめていた。
「少なくとも、美琴が戻ってきたわ」彼女はそっと言った。「彼女こそが、本当にあなたに相応しい女性よ」
