第3章
葵視点
白鷺市より、桜原市の方が冬は寒かった。
スーツケースを引きずって小さなアパートの一室に足を踏み入れる。ここが、私と、まだお腹の中にいる子との新しい家だ。
あの契約書にサインをしたのは、人生で最も辛い決断だった。だが、私に選択肢はなかった。紗世から受け取った1億は大金に思えたが、亡くなった作業員二人への賠償金と弁護士費用を支払うと、手元にはほとんど残らなかった。
それから数ヶ月、私は妊娠中でありながら必死に働いた。オンラインでフリーランスの建築設計の仕事を受け、毎日深夜まで働き続けた。
九ヶ月後の、ある深夜。私の息子は生まれた。
「颯真」。私はその柔らかな髪を撫でながら囁いた。「あなたの名前は、杉原颯真よ」
この小さな命を見つめていると、涙が頬を伝った。面影は速水湊司にそっくりだったが、父親のように冷たい人間には決してなってほしくないと願った。
「颯真、ママは約束するわ。あなたに最高の人生をあげるって」。私は息子の耳元で囁いた。「他の誰もいらない。私たち二人だけで、十分よ」
七年後
杉山設計は、桜原市で最も有名な建築事務所の一つになっていた。私たちの仕事はアメリカ東海岸にまで及び、数々の国際的な賞を受賞した。今回白鷺市に来たのは、クライアントから商業施設の詳細を直接確認してほしいと、緊急の依頼があったからに他ならない。
『まさか、ここで彼と再会するなんて』
白鷺市。その空に突き刺さる高層ビル群の一角、四十七階に位置する会議室は、静謐な威厳を湛えていた。床から天井まで続く巨大な窓からは、惜しみなく陽光が降り注ぎ、磨き上げられた楕円形のテーブルを煌めかせている。
私は、その光の中心で、巨大なプロジェクションスクリーンの前に立っていた。完璧に身体に沿うよう仕立てられたシャネルのスーツは、私の意志の強さを物語るかのように、一寸の乱れもない。研ぎ澄まされた知性と、揺るぎない自信を胸に、私はクライアントの視線を受け止め、修正後のデザインをプレゼンしていた。
「これらの調整により、建物の美的価値を維持しつつ、機能的な要件も満たすことができます」と、私は自信を持って言った。
「素晴らしい! まさに我々が求めていたものです!」クライアントは満足そうに頷いた。
その時だった。会議室のドアが、不意に開かれた。
時間が、止まったように感じた。
書類を手に、明らかにクライアントを探している様子の速水湊司が入ってきた。そして、私を見るなり、完全に動きを止めた。
『七年経っても、彼はほとんど変わっていなかった。相変わらず、ハンサムだ。でも、もう私は、彼に夢中だったあの頃の少女じゃない』
「葵?」湊司の声には驚きが滲んでいた。「本当に葵か?」
「お知り合いですか?」クライアントが私たちを交互に見た。
「以前の……知人です」と、私は冷ややかに答えた。そしてクライアントの方を向く。「神谷さん、これで打ち合わせは終了です。他に質問がなければ、失礼させていただきます」
「もちろんです。杉原さん、プロフェッショナルなご対応に感謝します」
私は資料をまとめて席を立とうとしたが、湊司はドアのそばに立ったまま、私をじっと見つめていた。
「失礼します」。私は出口に向かって歩き、彼のそばを通り抜けようとした。
部屋を出ようとした、その瞬間。彼が突然、私の行く手を塞いだ。
「葵、待て」
私は冷たく彼を見上げた。「どいてください、速水さん」
「話がある」。湊司の声は切迫していた。
「話すことなどありません」。私は彼の脇を抜けようとしたが、湊司は一歩前に出て、私の背後のドアフレームに手を突いた。彼とドアの間に、私を閉じ込めるように。
途端に、懐かしい香りに包まれる。彼の胸はほんの数センチ先にあり、その体温まで感じられそうだった。
「どいて」。私は冷たく、しかし声の震えを抑えきれずに言った。
「葵……」。湊司は私を見下ろし、その深い瞳には複雑な感情が渦巻いていた。「七年間、ずっとお前を探してた」
「それはあなたの都合でしょう」。私は冷静を保とうと必死で彼を押し返そうとしたが、湊司はびくともしなかった。
「お前は分かってない、あの夜の後……」
「もういい、完璧に理解しています」と私は遮った。「あなたは彼女を選んで、私を捨てた。ただそれだけのことです」
湊司のもう片方の手が、そっと私の頬に触れた。反射的に避けようとしたが、背後は壁で逃げ場はなかった。
「いや、お前は分かってない」。湊司の声が掠れた。「俺は美琴を愛していると思っていた。だが、間違っていたんだ。今なら分かる、俺がずっと、本当に愛していたのは、お前なんだ」
『……は?ふざけるな!』
「俺たちの間には、何もなかったんだ、葵。この七年間、何も」。湊司の親指が、私の顎をなぞった。「お前を失って、本当の愛が何なのかを思い知らされたんだ」
その指先の温もりに、心臓が激しく高鳴る。だが、彼の言葉に惑わされてはいけないと理性が告げていた。
「結構なことね」と私は冷たく笑った。「なら、その言葉は私じゃなくて、『彼女』に言ってあげるべきじゃない?」
「葵……」。湊司がさらに近づこうとする。彼の吐息が顔にかかるのを感じた。
私は不意に彼を強く突き飛ばし、どうにかその腕から逃れることに成功した。「速水さん、あなたが誰を愛そうが愛すまいが、私には関係ありません。私とは、一切無関係のことです」
湊司はよろめきながら後ずさり、その顔は苦痛に歪んでいた。「頼むから説明させてくれ……」
「何を説明するんです?」私は乱れた服を整えた。「皆の前で彼女を選んだこと? 白鷺市のエリートたちの前で、私に恥をかかせたこと? それとも、三年間も私を代用品扱いしてきたこと?」
「違う!お前を代用品だなんて、一度も思ったことはない!」湊司は必死に言った。「俺は……」
「もう十分です」。私は彼を冷たく見つめた。「速水さん、何か勘違いをされているようですね。私はもう、七年前のようにあなたのために全てを犠牲にするような女の子じゃありません。今の私には、自分のキャリアも、自分の人生も、自分のプライドもあるんです」
私がエレベーターに向かって歩き出すと、湊司も後を追ってきた。
「葵、頼む、説明するチャンスをくれ……」
エレベーターが到着した。私は中に乗り込み、後から入ろうとする湊司を手で制した。
「速水さん」と私は彼を見つめた。「七年前のあなたの選択には、感謝すべきかもしれませんね。あなたが私を捨ててくれなかったら、今の私はなかったでしょうから。ある意味、あなたは私に大きな恩恵を与えてくれたんですよ」
湊司の顔が、蒼白になった。
「だから、過去は過去のままにしておきましょう」。エレベーターのドアが閉まり始める。「私たちはもう他人です。そして、これからもずっと他人であり続けます」
その日の午後、私はホテルの部屋で仕事のメールに無理やり集中し、忙しさで心の動揺を紛らわせようとしていた。
その時、携帯電話が甲高い音で突然鳴り響いた。
『桜原市の市外局番』
胸が、不吉な予感で訳もなく締め付けられた。
「もしもし?」私の声は、わずかに震えていた。
「杉原さん、桜原総合病院の霧島と申します。息子さんの容態が急変しました。至急、病院に戻っていただきたいのです」
『……は?』
足元からぐらりと揺らぎ、全身の力が抜け落ちていく。まるで、重力から解放されたかのように、立っていることすら、もう限界だった。
この二年。心の奥底で、決して現実になってほしくないと願い続けた、あの悪夢。それが、今、目の前で、冷酷な現実となって、私に襲いかかっていた。
「何があったんですか!?」私はほとんど叫んでいた。「颯真は、颯真は無事なんですか?」
「緊急の治療方針について、直接ご相談する必要があります。ご家族に決断していただかなければならない重要なことがいくつかありまして」
世界がぐらりと揺れ、足の力が抜けて立っているのもやっとだった。この二年、一番恐れていたことが、ついに現実になってしまった。
「今すぐ、桜原市行きの飛行機を予約します!」
電話を切った後、私は必死で携帯のフライト情報を探した。涙で視界が滲み、画面がよく見えない。
『次の桜原市行きは、三時間後!?』
「だめ、だめ、だめ! そんなに待てない!」私は絶望のあまり叫んだ。
狂ったように荷造りを始め、服を無造作に鞄に放り込む。頭の中はただ一つの考えでいっぱいだった。息子の元へ、一刻も早く行かなければ!
『あの子はきっと怖がってる――ママが必要なんだ!』
エレベーターからロビーを駆け抜け、大理石の床にヒールの音が狂ったように響く。ホテルのエントランスを飛び出そうとした、まさにその時、湊司が突然そこに現れた。
まるで、私を待っていたかのように。
彼は眉をひそめた。「葵、どうしたんだ?」
「桜原市に、今すぐ行かなきゃならないの! 今すぐに!」私は半ばヒステリックに言った。涙はすでに頬を伝っていた。
「何があった?」湊司は即座に真剣な表情になり、一歩前に出て、ふらつく私の体を支えた。
「か……家族が、病院に!」声が詰まった。「お医者様が、緊急だって! 今すぐ戻らないと!」
湊司はためらわなかった。「俺のプライベートジェットが空港にある。桜原市まで二十分だ」
湊司の、真摯で、決意に満ちた瞳を見ていると、その瞬間、他のことはどうでもよくなった――恨みも、怒りも。
私は力強く頷いた。「ありがとう……ありがとう……」
