第4章
葵視点
湊司の申し出を断ってから一時間後、私はようやく白鷺市こども病院にたどり着いた。
真っ白な廊下は目に痛いほど冷たく、消毒液の匂いが鼻をつき、息が詰まりそうだった。
『どうか、無事でいて……!』
私は必死に小児科病棟へと走り、ヒールの音が床に焦りを刻むように響いた。
「颯真! 」
病室のドアを押し開けた瞬間、私の世界は完全に崩壊した。
ベッドに横たわる息子は、まるで生気のない人形のようだった。その顔は紙のように真っ白で、細い体には無数の管が絡みつき、生命維持装置へと繋がれている。
仕事から帰るたび、満面の笑みで駆け寄り、力いっぱい抱きしめてくれたあの子。
「ママ、今日は幸せだった?」小さな温かい手で私の手を握り、瞳を輝かせて尋ねてくれた、私の天使。
その愛おしい記憶が、今、目の前の痛々しい現実と重なり、私の胸を深く抉る。こんなにもか弱く、儚げな姿に変わり果ててしまった息子を前に、時間は凍りつき、呼吸すら忘れてしまいそうだった。
『いや……こんなの、嘘だ……』
「ママ?」颯真は弱々しく目を開け、懸命に微笑もうとした。「来てくれたんだ。もう……僕のこと、いらないのかと思った」
その言葉は、ナイフのように私の心臓を突き刺した。
「颯真、ママはここにいるわ」私はベッドサイドに駆け寄り、冷たくなった彼の手を優しく撫でながら、涙を流した。「ママがあなたをいらないなんてこと、あるわけないじゃない。もう二度と、あなたのそばを離れないから」
「ママ、泣かないで」颯真は小さな手で私の涙を拭ってくれた。「看護師さんが言ってた。泣くと、ウイルスにバイキンがあげちゃうんだって」
『こんなに辛いのに、私を慰めてくれてる……』
私は彼の小さな手を強く握りしめ、無理に笑顔を作った。「ママは泣いてないよ。ただ、颯真にすごく会いたかっただけ」
霧島先生が入ってきて、二人で話す必要があると頷きで示した。
「颯真、先生とお話してくるから。すぐに戻ってくるわ」
「ママ、本当に戻ってくる? この前の『すぐ』じゃないよね?」
『この前……』三日前、白鷺市へ発つ前に「すぐ戻るから」と言い残し、仕事の都合で二日間も帰れなかったことを思い出す。
「約束するよ。本当にすぐだから」私は彼の額にキスをした。「百まで数えたら、ママは戻ってくるわ」
――
先生の後について診察室へ向かいながら、震える脚を必死に制御した。
「杉原さん、お話しなければならないことがあります」霧島先生の表情は厳しかった。
私は椅子に腰掛け、指の関節が白くなるほど肘掛けを握りしめた。
「颯真くんの急性リンパ性白血病が、再発しました」先生は眼鏡を外し、疲れたように目元を揉んだ。「二年前にあなたが提供した骨髄移植は、失敗に終わったということです」
『……え?』眩暈がして、耳鳴りがした。
「それ……どういう、ことですか?」
「再度、骨髄移植が必要です。しかも、二週間以内に」一言一言が、ハンマーのように私の心を打ち付けた。「しかし今回は、新たなドナーを探さなければなりません」
「どうしてですか? 私がまた提供します! 私のすべてを捧げます!」
「一度目の移植後、あなたの体には抗体ができてしまいました。再度あなたの骨髄を使うと、颯真くんの命を奪いかねないほどの激しい拒絶反応が起きてしまいます」
世界は音を立てて崩壊した。足元から大地がひび割れ、平衡感覚が狂い、視界が大きく歪む。まるで、奈落の底へと、重力に逆らえず引きずり込まれていくかのような、抗いようのない絶望が、私の五感を侵食した。
「じゃあ……どうすればいいんですか」私はほとんど懇願するように尋ねた。「教えてください、私に何ができますか」
「世界中の骨髄バンクで適合するドナーを探しました」霧島先生はため息をついた。「残念ながら、まだ適合者は見つかっていません。颯真くんの血液型と遺伝子プロファイルは、かなり特殊なのです」
「海外での治療は? 治験でも何でも?」私は必死に食い下がった。「お金ならあります! いくらでも払います!」
「杉原さん、お気持ちは分かります。ですが、時間は待ってくれません。颯真くんの今の進行状況を考えると、長くても二週間です」
先生は一度言葉を切り、私を見つめた。「現在、我々にとって最大の希望は、お子さんの実の父親です。直系の血縁者は適合率が最も高く、通常、五〇パーセントを超えます」
『実の、父親……』
心臓が激しく締め付けられる。この七年間、必死に忘れようとしてきたその名前、その顔が、津波のように押し寄せてきた。
『速水湊司……』
「もし、ドナーが見つからなかったら……どうなるんですか」私は静かに尋ねた。
霧島先生の表情は、さらに険しくなった。彼は長い間沈黙し、ついに答えることはなかった。
「……分かりました」
診察室を出ると、脚がほとんど体を支えてくれなかった。『息子が死ぬかもしれない……この子が、私のもとからいなくなってしまうかもしれない……』
――
それからの一週間、私は東浜地方にある主要な病院と骨髄バンクをすべて訪ね歩いた。
「申し訳ありません、うちのデータベースに適合者はいません」
「ヨーロッパの登録機関にも問い合わせましたが、やはり結果は……」
「世界中にドナー提供を呼びかけることもできますが、成功率は低く、何より時間が……」
断られるたびに、心にナイフが突き立てられるようだった。日に日に弱っていく颯真を見ながら、私は何もできずにいた。
『私は、失格な母親だ。自分の子ども一人、守れない』
一週間という、途方もなく長い時間が過ぎたその夜。私は颯真のベッドサイドに、まるで魂が抜けたように座り込んでいた。目の前の小さな顔は、あの日の記憶をさらに薄めたかのように青白く、呼吸は細い糸のようにか細い。
時折、その胸が微かに上下するのを確認するたび、安堵と同時に、いつ途切れてしまうかと、心臓が締め付けられるような恐怖に襲われた。
「ママ」颯真は弱々しく私の手を握った。「今日、お仕事行かなかったの?」
『分かってるんだ。この賢い子は、全部』
「ううん、今日は颯真と一緒にいたかったの」私は涙をこらえた。
「ママ、僕、天使さんに会うのかな?」颯真は力なく微笑んだ。「昨日、夢の中でキラキラしたお姉さんがね、僕が望むなら、痛くないところに連れて行ってあげるって言ってた」
『やめて……そんなこと、言わないで……』
「ううん、そんなことないわ。ママが絶対に逝かせない」私は彼の小さな手を強く握った。「ママが、必ず方法を見つけるから」
「ママ、泣かないで」颯真は小さな手で私の涙を拭った。「看護師さんがね、強い子は泣かないんだって」
「颯真は、もう世界で一番強い子よ」私は彼の手のひらにキスをした。「ママの、一万倍も強い」
「ママ、もし……もし僕が本当に行かなきゃならなくなったら」颯真の声がかすれていく。「パパのこと、教えてくれる?」
心臓が、一瞬で止まった。
「今日ね、隣のベッドの子が、パパがお見舞いに来ておもちゃを持ってきてくれたって言ってたんだ」颯真の瞳にかすかな光が宿った。「僕のパパって、どんな人なのかな。僕にも、おもちゃを持ってきてくれるかな?」
その言葉が、私の最後の砦を完全に打ち砕いた。
私は颯真を抱きしめ、声を上げて泣いた。
『息子のために、私はすべてを捨てられる。憎しみも、プライドも、尊厳も』
病室を出て、涙を拭い、一度深呼吸をしてから、あのよく知る番号をダイヤルした。
電話が繋がった瞬間、心臓が胸から飛び出しそうだった。
「葵?」湊司の弾んだ声が聞こえてきた。「……本当に、電話をくれたのか?」
「湊司……」声が詰まった。七年ぶりに、自ら彼の名を口にした。「助けてほしいの」
電話の向こうが、沈黙した。湊司の、息が荒くなるのが聞こえる。
「何があった? 言え! 何でも、俺が助けてやる!」
「私には……息子がいるの」ガラスの破片を飲み込むように、言葉が喉に突き刺さった。「あの子に、あなたの骨髄が必要なの」
