第5章 あなたたちはいつ子どもを欲しいと思っているのか

 ――吐き気がする? 醜い?

 莉緒はふいに、吉野結人という男がひどく遠い存在に思えた。

 今日になって初めて気づいたのだ。彼の中には、こんなにも思い上がって卑しい一面があるのだと。

 莉緒は何も言わず、吉野結人と小林莉那をまとめて外へ押し出した。

「出ていって!」

 吉野結人はよろめいて段差を踏み外しかけ、どうにか踏ん張る。同じく転びそうになった小林莉那を、反射的に支えた。

「この……気違いが」

 奥歯を噛みしめるように吐き捨てる。

 小林莉那は不安げに彼の腕へすがりつく。

「結人、私のせいで喧嘩しないで。最悪……歓迎会なんて、やめればいいんだもの」

「放っておけ」

 吉野結人は冷たく言った。

 そのまま小林莉那の手首を取り、

「行くぞ」

 と短く告げる。

 夕方6時。

 吉野家は明々と灯りに包まれていた。

 車寄せで出迎えの者が恭しくドアを開ける。

「若奥様」

 莉緒は小さくうなずき、ゆっくり車を降りた。

 本当は来るつもりなどなかった。けれど、この機会に義母へきちんと離婚の意思を伝えようと思ったのだ。

 中へ入ろうとしたとき、背後でまた車のドアが開く音がした。

 黒いベントレーが彼女のそばに停まり、運転席から吉野結人が降りてくる。

 莉緒は淡々と一瞥をくれただけで、その横を冷たく通り過ぎた。

 ふたりは前後して屋敷に入る。

 言葉は一つも交わさない。

 ダイニングでは、義母がすでにテーブルのそばで待っていた。

 ふたりの姿を見つけるなり、にこやかに手招きする。

「さあ、早くいらっしゃい。スープを注いだばかりなの。熱いうちにいただいて」

「お義母さん」

 莉緒はやわらかく呼びかけ、義母のそばに腰を下ろした。

 結人は彼女の向かいに座り、箸を取る。その表情は驚くほど平静で、まるで午後の激しい衝突など最初からなかったかのようだった。

「また痩せたんじゃない?」

 義母は莉緒のためにスープをよそい、目を細めた。

「顔色も悪いし。結人がまたあなたを困らせてるんじゃないでしょうね?」

「そんなことありません、お義母さん」

 莉緒は無理に笑う。

「ちょっと最近、食欲がなくて」

「食欲がないならなおさら食べなきゃ」

 義母は魚をひと切れ彼女の皿にのせた。

「このお魚、新鮮なのよ。小島さんにわざわざ蒸してもらったの。脂っこくないから、食べてみて」

 莉緒はうつむき、小さく口へ運ぶ。

 味なんて、ほとんどしない。

 そのとき結人が、ふいに青菜を一箸、彼女の茶碗へ入れた。

 口調は珍しく穏やかだ。

「野菜も食べろ」

 莉緒の動きが、ぴたりと止まる。

 義母の笑みはさらに深まった。

「そうそう、それでいいのよ。夫婦はお互いにちゃんと気遣わないと。結人、これからはもっと莉緒を大事にしなさい。仕事ばかりじゃだめよ」

「わかったよ、母さん」

 結人はそう返し、また莉緒にスープをよそった。

 その手つきは妙に自然で、まるで何百回もやってきたことのようだった。

 以前の莉緒なら、それだけで胸がいっぱいになっていたはずだ。

 でも今はわかる。

 これは全部、演技だ。

 義母に見せるためだけの、優しい夫の芝居。

 滑稽だった。

 莉緒はうつむいたまま、機械のように食べ物を口へ運ぶ。

 そのたび胸の奥では、鈍い刃で何度も何度も削られるような痛みが走っていた。

「そうだわ、ずっとあなたたちに言おうと思ってたことがあるの」

 義母がふいに箸を置き、少し真剣な顔になる。

「もう結婚して5年でしょう? そろそろ子供のこと、考えてもいいんじゃないかしら。私の友達なんて、孫がもう大きくなってるのよ。私もね、孫の顔が見たいの」

 莉緒は箸を持つ手に力が入った。

 思わず下腹へ手を添える。そこには今、小さな命が宿っている。自分と結人の子――。

 ずっと待ち望んでいたはずの命だった。けれど今は、怖い。

 唇がわずかに開く。

 それでも、言えなかった。

 今ここで打ち明けたら、義母はきっと心から喜ぶだろう。

 でも、その先は?

 こんな家に生まれて、この子は本当に幸せになれるのだろうか。

 そもそも結人は、この子を望んでいない。

「母さん、まだその話は早い」

 先に口を開いたのは結人だった。

「俺も莉緒も、まだ若い」

「まだ若いですって?」

 義母は不満そうに首を振る。

「もう5年も経ってるのよ。子供は早いほうが、大人にも子供にもいいの」

 そう言ってまた箸を取り、ふたりの皿におかずを取り分ける。

「問題を先延ばしにしないで。いったいいつ子供をつくるつもりなの? 私は孫を抱くのを待ってるんだから」

「いや、でも母さん……」

 結人は困ったように苦笑する。

「今生まないで、いつ生むんだよ。ほら、小島さんのところのお子さんだって――」

 食卓では、母と息子のやり取りがぽんぽん続いた。

 食後、義母は疲れたらしく、使用人に支えられて部屋へ戻っていった。

 義母は食後にお茶を飲むのが好きだ。莉緒はそれを覚えていて、部屋まで運んでいく。

 だが、扉を開けた瞬間――義母が激しく咳き込んでいるのが目に入った。

「お義母さん、どうなさったんですか」

「何でもないのよ」

 義母は苦しそうに手を振る。

「それよりあなた、こんな時間まで起きてて。そんなに痩せていて、これで妊娠なんかしたら体がもたないわよ」

「こんなにつらそうなのに、どうしてそんな話ばかりするんですか」

 莉緒は困ったように眉を下げた。

「先生、呼びましょう」

 そう言ってスマホを取り出し、早川渚に連絡しようとした。

「本当にいいの!」

 義母は慌てて莉緒の手を掴んだ。

 不思議そうな視線を受け止め、ふっと息を吐く。

「……もう隠しても仕方ないわね」

 義母は引き出しを開け、診断書を一枚差し出した。

「もう、隠しきれない」

 莉緒はそれを見た瞬間、血の気が引いた。

「肺がん……末期? お義母さん、どうしてもっと早く仰ってくださらなかったんですか」

「早く言ったってどうにもならないもの」

 義母はむしろ穏やかに笑った。

「見つかったときにはもう末期だったの。治らない病気よ。あなたたちに心配をかけたくなかったし、病院で残りの時間を潰すのも嫌だった。せめて最後くらい、あなたたちが元気で仲良くしているのを見ていたいの。もし孫の顔まで見られたら、それ以上の幸せはないわ」

 莉緒はがたっと立ち上がった。

「結人に伝えます。最高のお医者様を探して、きっと――」

 義母は彼女の手を引き止めた。

「この病気に治る見込みはないの。残り半年を病院で消したくない。結人にも言わないで。私を病院に閉じ込めないでちょうだい。お願い、これだけは聞いて」

 その言葉を聞いた莉緒の目から、知らぬ間に涙があふれていた。

 義母はこんなにも自分によくしてくれた。実の娘のように大切にしてくれた。

 なのに、自分は――。

 今夜こそ離婚の話を切り出すつもりだった。

 けれど、こんなことを知らされて、どうしてそんな話ができるだろう。

 義母を支えて部屋を出るころには、莉緒の目はもう赤く腫れていた。

 それを見た結人は、ひと目で眉をひそめた。

 泣くほど母に告げ口したのか――そう思ったのだろう。

「もう遅いわ。今夜はここに泊まっていきなさい」

 壁時計を見ると、もう10時近かった。

 やはりそういうことか、と結人は内心で冷笑した。

 母の力を借りて、自分に圧をかけてくるつもりなのだと。

 結人は立ち上がり、莉緒を冷たく一瞥する。

「母さん、友達が何人か待ってるんだ。今日は泊まらない」

「何がそんなに大事な友達なの」

 義母がぴしゃりと遮る。

 何が、だって?

 小林莉那に決まっている。

 結人は案の定、眉を寄せた。

「でも……」

「私はもう年なのよ。あなたたちもめったに帰ってこない。会える回数だって限られてるわ」

 義母は寂しそうに言った。

「少しでいいの。今夜はそばにいてちょうだい」

 結人は黙り込んだ。

 母にこう言われてしまえば、断れるはずもない。

 寝室へ入ると、結人はちょうど風呂を上がったところだった。

 下半身には無造作にバスタオルを巻いただけ。ベッドにもたれ、スマホを打ちながら薄く笑っている。

 誰とやり取りしているのかなんて、見なくてもわかった。

 莉緒は完全に無視し、毛布を抱えてソファへ向かった。

 それを横目で見た結人の顔が、すっと冷える。

「何をしてる」

「あなたはベッド。私はソファ」

 短く言い切る。

 ソファで寝る?

 結人は鼻で笑った。

 その調子で、余計な幻想なんて最初から抱かなければいい。

 暗闇の中、莉緒は身体を小さく丸めた。

 体が冷えているのか、心が冷えているのか、自分でもわからない。

 その夜、彼女は一睡も安らげなかった。

 翌朝、外からかすかに聞こえる話し声で目を覚ます。

 ゆっくり瞼を開けると、もうすっかり明るくなっていた。

 こんなに寝過ごした?

 莉緒ははっとして身を起こし――次の瞬間、目を見開いた。

 自分は、ベッドの上にいた。

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