紹介
私は静かに家を捨て、彼の知らない子供と共に旅立った。
だが、私の消えた世界で、冷酷なはずの夫の歯車が軋み始める。
冷徹な社長の面影は消え、今や彼は狂気じみた執着で、この街のすべてを焼き払う勢いで私を追い求めている。
チャプター 1
「おめでとうございます。ご懐妊です。すでに2か月になります」
病院を出た莉緒は、手にした検査結果の用紙をぎゅっと握りしめ、胸の高鳴りを抑えきれなかった。
吉野結人と結婚して5年。ようやく、ふたりの子供を授かったのだ。
――なのに、この喜びは素直に口にできない。
結婚してからというもの、吉野結人は一度も彼女に触れようとしなかった。莉緒はずっと、夫には何か言えない事情があるのだと思い込んでいた。
それが先月、吉野結人が泥酔した夜――ふたりは初めて、名実ともに夫婦になった。
そして、たったあの一度で。
莉緒は幸運にも身ごもった。
一刻も早く、この知らせを結人に伝えたかった。
吉野家へ戻ると、使用人が小声で言った。
「若様は書斎にいらっしゃいます。お通しするなと仰せで……」
それでも莉緒は止まれない。階段を上がり、書斎の前へ立つ。ノックしようとした、その瞬間――
扉の向こうから、押し殺したような、それでいて切迫した荒い息遣いが漏れてきた。
莉緒の心が、どすんと沈む。
身体ごと、その場で凍りついた。
その声は、先月ふたりが重なったとき、彼が耳元で洩らしていたあの擦れるような吐息と、まったく同じだった。
意味くらい、わかる。
けれど理解できない。
自分がここにいるのに、どうして夫はひとりで――。
莉緒は息を殺し、そっと扉の隙間から中をうかがった。
書斎は薄暗い。吉野結人はデスク前の椅子に腰かけ、入口に背を向けている。肩が小刻みに上下し、手には一枚の写真を握っていた。
写真そのものは見えない。
ただ、彼がその写真に向かってくぐもった息を漏らし、荒い呼吸を繰り返しているのだけが聞こえた。
やがて呼吸はさらに切羽詰まり、意識も曖昧なまま喉の奥から堪えきれない低いうなりがこぼれる。
「……莉那……」
莉緒は眉をひそめた。
そういえば、先月のあの夜。泥酔していた結人は、彼女を抱きながら何度も何度も「莉那」と呼んでいた。
自分の名前にも「莉」は入っている。だから、あのときは自分のことだと思った。
なぜ「莉那」なのかはわからない。それでも嬉しかった。5年待ち続けた時間が、ようやく報われたのだと――そう信じたかった。
結人の心のどこかに、自分がいるのだと。
もしかしたら、夫のちょっとした癖なのかもしれない。そう都合よく解釈して、莉緒は気まずさに足を止めたまま、中へ入らず静かにその場を離れた。
だが寝室へ戻るころには、胸騒ぎがどうしても拭えなくなっていた。
この5年、夫は性に淡泊だった。
直感が告げている。
結人が握っていた写真は、自分ではないのではないか、と。
――そういえば、当時。
吉野結人の母が頑なに莉緒との結婚を望んだとき、結人は激しく反発していた。
莉緒の母は吉野夫人の親友で、若いころから将来は互いの子供を結婚させようと約束していたらしい。
だが浅野家は没落し、母は亡くなる間際、娘の莉緒を吉野夫人に託した。
親友への恩に報いるため、吉野夫人は周囲の反対を押し切って、この縁談をまとめ上げた。
誰もが言った。
莉緒は玉の輿に乗ったのだと。母親の恩を盾に、吉野結人を一生縛りつけたのだと。
考えれば考えるほど、怖くなる。
全身から血の気が引き、背中に冷たい汗が滲んだ。
そのとき、背後で足音がした。
結人が、ひとりの行為を終えて部屋へ入ってきたのだ。
グレーのバスローブをまとい、肩幅は広く脚は長い。頬にわずかな紅潮こそ残っているものの、いつも通りの冷ややかで沈着な佇まいと、ほとんど変わらない。
莉緒の真っ青な顔を見るなり、彼はわずかに眉を寄せた。
「どうした? ひどい顔色だな」
莉緒は首を振り、慌てて表情を整える。
「なんでもない」
結人はじっと彼女を見つめ、それから尋ねた。
「今日は病院に行ったんだろ。結果はどうだった」
莉緒は一瞬ためらい、それでも妊娠のことは告げなかった。
「大したことない。少し低血糖気味だって」
結人は手を伸ばし、莉緒の額に触れた。
「ずいぶん汗をかいてる」
胸の中はぐちゃぐちゃで、莉緒はその手をそっと押しのけた。
「ちょっと疲れただけ。休めば平気」
結人はポケットから小さな箱を取り出し、彼女に差し出す。
開けてみると、中にはティファニーのブレスレットが入っていた。デザインは少し前のものだ。
「前に好きだって言ってただろ」
淡々とした声。
莉緒は目を伏せ、小さく答える。
「……ありがとう」
たぶん彼自身、覚えていないのだ。
あのとき彼女が欲しかったのは、ピンクとブルーのネックレスであって、ブレスレットではなかった。
結人はクローゼットからコートを取り出しながら言った。
「この2、3日、用事がある。夜は戻らない。母さんに聞かれたら、うまくごまかしておいてくれ」
箱を握る莉緒の手が、ぴくりと震えた。
なるほど。急に贈り物なんてするはずだ。
口裏合わせをさせるためだったのだ。
「わかった」
莉緒はベッドに横になり、背を向ける。
「仕事、頑張って。少し眠いから、休むね」
結人はうなずいた。
「そうか。じゃあ休め。会社に行ってくる」
そう言ってコートを羽織り、そのまま出ていった。
扉が閉まったあと、莉緒はベッドから起き上がる。
どうしても、書斎にあったあの写真が頭から離れない。
確かめよう――そう決めた。
書斎に入り、机の上をしばらく探した末、引き出しの奥でその写真を見つける。
震える手で持ち上げた瞬間、心が氷の底へ沈んでいった。
写っていた女は、やはり自分ではなかった。
二人で撮った一枚。
女は乗馬服を身につけ、すらりと背が高く、凛として颯爽としている。笑えば頬には甘いえくぼが二つ浮かんでいた。
その隣に立っているのは、まぎれもなく彼女の夫、吉野結人。
結人はその女の肩を抱き、ふたりはカメラに向かって幸せそうに微笑んでいる。
そんな表情を、莉緒は夫の顔に一度たりとも見たことがなかった。
彼は冷たく孤高な性格なのだと、ずっと思っていた。
まさかこんなふうに、陽だまりのような明るさを見せることがあるなんて。
写真はかなり古いものらしく、結人の面差しにはまだ若さと青さが残っていた。
莉緒は裏返す。
そこには小さな字でこう書かれていた。
『最愛の弟へ 小林莉那』
小林莉那――
この女の名前にも、「莉」が入っている。
その瞬間、莉緒ははっとした。
あの夜、酒に酔った結人が口にしていた「莉那」は、自分ではなかったのだ。
小林莉那という、この女のことだった。
胸を何万本もの針で一斉に刺されたように、細かく鋭い痛みが広がっていく。
莉緒は、吉野結人と結婚する前から彼に恋をしていた。
当時、彼女はモデルとして吉野グループ主催のショーに参加していた。ランウェイの上から、初めてゲストシートの結人を見たとき、緊張のあまり足をくじいてしまった。
会場にどっと失笑が広がる。
消えてしまいたいほど恥ずかしくてうつむいたそのとき、結人は自らステージへ上がり、紳士的に彼女を支えてくれた。
こんな男性と結婚できたら、どんなに幸せだろう――あのとき彼女は、そう思った。
のちに、母がずっと口にしていた許婚の相手が結人だと知った夜、莉緒は興奮のあまり一睡もできなかった。
ちゃんと吉野家の妻として務めを果たしさえすれば、ずっと彼のそばにいられるのだと信じていた。
けれど今、この写真を前にして思い知る。
自分の考えがどれほど幼く、滑稽だったかを。
不意に、ぐらりと視界が揺れた。
強い吐き気が一気に喉元までせり上がってくる。
莉緒はよろめきながらトイレへ向かおうとしたが、目の前が真っ暗になり、そのまま床へ崩れ落ちた。
意識は、そこで途切れた。
最新チャプター
#215 第215章 お互いに言い訳の余地を残
最終更新: 9/15/2026#214 第214章 母は亡くなる間際、一体何と言っていたんだ?
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最終更新: 9/15/2026#208 第208章 母は本当に病死しただけなのか
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最終更新: 9/15/2026#206 第206章 心に残る疑惑
最終更新: 9/15/2026
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けれど、私の隣で横たわるこの男の正体は、彼が語ったものとはまるで違っていた。
魅惑的な笑顔と抗いがたい容姿の下に隠されていたのは、仇敵から身を隠す億万長者の素顔だった。
今や彼は、私の生活に、私のベッドに、そして私の心に――完全に絡みついている。
身を引くことは、彼のそばにいることよりも、もっと危険かもしれない。
弁護士とゴッドファーザー
ウイスキーが喉を灼く。その時、彼が目に入った。
仕立ての良いスーツが広い肩幅を引き立て、その瞳の奥には人を威圧するほどの冷静さが宿っている。
気品を纏ったその肉体は、骨の髄まで溶かすような誘惑に満ちていた。
私は千鳥足で歩み寄り、身体の火照りを感じながら問いかけた。「……あなた、お相手してくれる?」
彼は口元をわずかに吊り上げた。「君のことは知っているよ」
私は彼の膝の上に腰掛けた。シガーの煙と濃厚なコロンの香りが私を幾重にも包み込む。
指先で彼の顎に触れ、そのまま腰元の冷たい金属のアクセサリーへと滑らせた。
その瞬間、彼は私を強く抱き寄せた。その身体は重厚で力強く、逃げることなど許さない。
重ねられた彼の唇は重く、熱く、深く、拒絶を許さないほどの独占欲を孕んでいた。
口づけを交わすたびに呼吸を奪われ、触れられるたびに、私はどうしようもなく彼に寄り添ってしまう。
彼に横抱きにされてバーを後にする頃には、私の頭はすっかり朦朧としていて、心の奥でさらなる温もりを求めていた。
彼のベッドの上で、彼は熱烈でありながらも理性を保ち、何度も私を絶頂へと導き、すべての理性を狂わせていく。
翌朝、目が覚めると、私は彼のベッドのシーツにくるまれていた。肌には彼が残した痕跡がいくつも刻まれている。
夜が明ける前に、私は逃げるようにその場を去った。この一夜は、元カレへのあてつけの、ただの荒唐無稽な過ちだと言い聞かせて。
けれど、彼と過ごしたあの夜の時点で、私の運命はすでに決まっていたのだ――。
私を芯から熱くさせたあの男は、私の想像を遥かに超えるほど、危険な存在だった。
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「なるほど。俺の本当の婚約者は、君だったわけか」
つわり発覚!? 禁欲上司に甘やかされすぎて、胸キュンが止まりません!
それは私の夫の手。――彼は、浮気をしていた。
伝説の天才、偽りの姿だ
だが、目を覚ますと、知能が低いと見下されている「不細工な女子大生」へと生まれ変わっていた。
容姿を嘲笑われれば、自ら開発したスキンケアクリームで誰もが息をのむ美貌へと変貌を遂げる。
知性を馬鹿にされれば、世界最高峰の大学の総長が自らスカウトに訪れ、医学界の権威は秘密の処方を求めて跪き、国際的なトップスターは楽曲の編曲を求めて彼女を追いかける。
二度目の人生こそは平凡な生活を味わおうとしたものの、隠された正体が次々と暴かれ、気づけばまたしても世界の頂点へと上り詰めてしまう。
背後には無数の配下を従え、その傍らには彼女を守る冷徹な実力者が寄り添うが、この冷徹な男は何かと嫉妬深く、彼女を翻弄してくるのだった。













