第6章 早くキスして、莉那はもう待ちきれない
ソファは空っぽで、吉野結人の姿もない。
ということは――
昨夜、自分をベッドへ運んだのは、吉野結人……?
しかも、同じベッドに寝かせたってこと?
胸の中に疑問が渦巻いたまま部屋を出ると、階下にいたのは吉野母だけだった。
「結人は会社で用事があるんだって。もう出たわよ」
莉緒は口元をひくりと引きつらせる。
小林莉那のところへ急いだんでしょ――そう思ってしまう自分が、嫌になる。
あの女が戻ってきた途端、吉野結人は何もかも後回しだ。吉野母の体のことだって、まともに気にかけない。
なのに吉野母は、何ひとつ言うなとばかりに口を噤む。
情緒が乱れているのを悟られたくなくて、莉緒は朝食を済ませると適当な理由をつけ、早々に家を出た。
ちょうど玄関を出たところで、早川渚から電話が入る。
『今日、私の誕生日なんだけど。夜、ごはん行ける?』
「うん、行く」
夜7時。
莉緒が帝豪ホテルに着くと、渚だけでなく、昔モデル業界で付き合いのあった顔ぶれも何人か揃っていた。
席へ近づいた途端、懐かしい声が飛んでくる。
「久しぶりだな、莉緒! モデル辞めて結婚したって聞いたけどさ、もったいなさすぎるだろ。おまえ、あの頃一番伸びるって言われてたのに!」
「ほんとそれ! 続けてたら今ごろ絶対、海外でも通用するトップになってたって!」
口々に言われ、莉緒は曖昧に笑ってうなずく。
胸の中だけが、すうっと空っぽだった。
――もし、吉野結人と結婚していなかったら。
ランウェイの上で光を浴び続けていたかもしれない。夢を掴んでいたかもしれない。
少なくとも今みたいに、愛のない結婚に閉じ込められて、笑い話みたいな人生を送ってはいなかった。
「莉緒、どうした? 顔色悪いよ」
渚が心配そうにのぞき込む。
「大丈夫。ちょっと疲れてるだけ」
莉緒は首を振り、笑みを作った。
「ほら、ケーキ切ろ」
食事会は、表向きは穏やかに進んだ。
業界の噂話、癖の強いクライアントへの愚痴。笑い声が何度も弾ける。
莉緒も一緒に笑った。
それでも胸の奥に沈んだ石は、少しも動かない。
ふいに思ってしまう。
今ごろ吉野結人は、何をしているのだろう。
小林莉那と一緒にいて、友人たちに囃し立てられ、祝福されているのではないか――。
何度「手放せ」と自分に言い聞かせても、息が詰まるほど重い。
渚の誕生日まで台無しにしたくなくて、莉緒は席を立った。
「トイレ行ってくる」
洗面所で冷たい水を顔に当て、深く息を吸って吐く。
それでも喉の奥に残る苦さは消えなかった。
長く席を外しすぎた。
ふらつく足取りで廊下へ出て、そのままぼんやり歩いてしまう。
――そして、扉を間違えた。
ドアを押し開けた瞬間、耳をつんざく大音量の音楽と、どっと湧く囃し声。
「キスしろ! キスしろ! キスしろ!」
莉緒は慌てて頭を下げた。
「すみません、部屋を間違え――」
引き返そうとして、何気なく視線を上げる。
その瞬間、足が凍りついた。
個室の真ん中で、吉野結人が小林莉那の腰を抱いていた。
顔をわずかに傾け、唇を近づけていく。
「結人、早くしろよ! ゲームで負けたんだから逃げんな!」
「そうそう! 莉那だって待ちきれないってさ!」
「キス! キス!」
囃しはさらに大きくなる。
吉野結人は、かすかに笑ったように見えた。もう一歩、踏み込む。
唇が触れそうになった、その瞬間。
彼の視線が入口を掠め――莉緒を認めた途端、はっとして腕を引いた。
小林莉那も振り返り、莉緒を見つけるとすぐ駆け寄ってくる。
「莉緒? どうしてここに? 違うの、誤解しないで。王様ゲームで結人が負けただけなの。罰ゲームっていうか、みんなでふざけてただけ。気にしないで?」
莉緒はその手を振り払った。
視線だけは、まっすぐ吉野結人へ。
「ゲームなら、立場も境界も忘れていいわけ?」
「莉緒、ほんとに違うの」
小林莉那が縋るように言う。
「私、昔から男みたいに大雑把でさ。みんなも女扱いしてないの。だから怒らないで」
莉緒は小林莉那を上から下までゆっくり見て、ふっと笑った。
「小林さんって、綺麗でスタイルもいいのに『女扱いされてない』ってよく言えるわね。海外が長くて価値観が開放的なの? それとも、さっぱりした性格を盾にして、男に囲まれてちやほやされるのが好きなだけ?」
小林莉那の目に、たちまち涙が溜まる。
「莉緒……どうしてそんなふうに言うの……?」
吉野結人の顔色が、一気に悪くなった。
「莉緒、いい加減にしろ。おまえも女だろ。どうしてそんな悪意で莉那を貶めるんだ」
自分も女。
そう言うのなら、なぜ他の女の痛みには寄り添えて、自分の痛みには寄り添えない。
――ただ、愛していないからだ。
愛していない相手の感情など、彼にとっては無駄なのだ。
莉緒の心が、静かに冷えていく。
「結人、やめて」
小林莉那がしゃくり上げながら言う。
「全部私が悪いの。私、考えを人に押しつけるべきじゃなかった」
そして莉緒へ向き直ると、突然深く頭を下げた。
「ごめんなさい。全部私が悪いの。これからは……結人から距離を置く。だから私のせいで、もう喧嘩しないで」
吉野結人が小林莉那の手首を掴み、乱暴に起こした。
「おまえが謝る必要なんてない。悪くないだろ」
冷たい視線が、莉緒に刺さる。
「もううんざりだ。突然現れて、莉那の歓迎会を台無しにしたいのか? 俺が呼んだときは来なかったくせに、今さら後をつけてきて。結局、おまえは嫉妬してるだけだろ」
「嫉妬?」
莉緒は静かに笑った。
「あなたみたいなのに、嫉妬する価値なんてない」
「莉緒!」
吉野結人が一歩踏み出す。
「言っておくが、俺と莉那の関係は潔白だ。おまえの汚れた想像で測るな」
その瞬間、莉緒はテーブルの赤ワインを掴み、ふたりへ叩きつけるようにぶちまけた。
吉野結人は反射的に小林莉那を庇ったが、しぶきは容赦なく二人を濡らした。
「莉――」
パシン。
吉野結人が言い終えるより早く、莉緒の平手が彼の頬を打ち抜いた。
空気が、ぴたりと止まる。
普段はおとなしい女が、今日はどこか壊れていた。
「吉野結人、知ってる?」
莉緒の声は、不気味なほど落ち着いていた。
「この5年、私はずっと思ってた。あなたは性に興味がないんだって。私に魅力がないから触れたくないんじゃないかって、何度も何度も考えた」
室内の誰もが息を呑む。
反感を持っていた連中でさえ、顔を見合わせた。
結婚したばかりの頃の莉緒が、華やかで、燃えるみたいな美しさだったことは知っている。
そんな女を前にして、吉野結人が本当に――?
「でもあの日、書斎の前で……」
吉野結人が何かを悟って顔色を変え、荒々しく踏み込む。
「莉緒、やめろ!」
莉緒は身を翻してかわし、声を張り上げた。
「中であなたが何度も息を荒くしてるのを聞いた。写真に向かって『莉那』って呼んでたのも聞いた。吉野結人、あれは何? それもゲームだったって言うの?」
