第6章 君は問題から逃げているんだ

平山亜美の視点

――本音を口にして、つらいって言うのは。あいつの中では「子どもっぽい」ってことになるの?

彼の責めは止まらない。

「有紗のほうはさ、じゃあ俺にどうしろって言うんだよ。俺たちお互い知り合いなんだし、そんなにこじらせたくないだろ? まさか俺に、あいつを怒鳴れって? 殴れって? 亜美、お前は感情的すぎる。理想ばっか追いすぎ」

「……そう」

自分の声が、驚くほど凪いで聞こえた。

「私が大人で、私が引きずらなくて、あなたがパーティーに行くのも邪魔しないってことね。行けばいい。楽しんできて」

「亜美!」

通話を切った。

見上げれば、頭の上にまんまるい月。胸の奥がすり減りきっていて、体まで鉛みたいに重い。

疲れた。とにかく疲れた。

もう全部から逃げたい。何も考えたくない。何も、背負いたくない。

……

大会当日。

バックステージはごった返していた。化粧台の前は人でぎゅうぎゅう。部員同士が髪を結び合い、メイクを直し、ユニフォームの位置を整え合う。空気は浮き立っているのに、どこか張り詰めていて――みんな、興奮と緊張を同時に抱えていた。

「落ち着いて、落ち着いて! みんな、深呼吸!」

二宮さんがぱんぱんと手を叩き、必死に場をまとめる。けれど彼女の声も、わずかに震えている。

「振りを覚えてる? 仲間を信じて。ステージを楽しむの。何千回もやってきたでしょ。体が覚えてる、そうよね?」

「はい!」

声が揃う。

私は鏡の前に立ち、最後の最終チェックをした。

鏡の中の私は、完璧に見える。堂々としていて、自信に満ちている――そう見える。

でも、手が震えていた。

「キャプテン……大丈夫ですか」

2年の子が、そっと囁く。

「大丈夫」

口角を上げてみせる。握りこぶしを作り、爪を掌に食い込ませた。痛みで自分を繋ぎ止める。

そのとき、バックステージの扉が開いた。

桜井有紗と、美奈たちが入ってくる。もうメイクは仕上がっていて、照明を浴びる前から派手に映える顔をしていた。

有紗の視線が私をなぞり、口元が嘲るように吊り上がる。

「へえ。キャプテン、今日やけに元気そうじゃん」

すかさず美奈が乗る。

「だって今日は大舞台だもんね。失敗したら、一生モノの後悔になるんじゃない?」

くすくす、と小さな笑いが連鎖する。

私は返さず、小道具の確認に回った。

けれど有紗は逃がしてくれない。すっと距離を詰め、声を落とす。

「ねえ、聞いたよ。陽、昨日バーで朝まで飲んでたって。赤毛の女と、めっちゃ楽しそうに話してたらしいじゃん」

首を傾げた笑みが、毒みたいに甘い。

「知ってる? あんたとケンカするたび、陽は私のとこに愚痴りに来るの。『亜美ってつまんない』『頭の中、練習しかない』って。あと――」

「有紗」

二宮さんの声が割り込んだ。

いつの間に来たのか、二宮さんが私たちの間に立ち、鋭い目で有紗を射抜いている。

「出る気があるなら、今すぐ黙って自分の位置に戻りなさい」

有紗の顔が一瞬、引きつった。けれどすぐ、何でもないふうに肩をすくめる。

「ただキャプテンとおしゃべりしてただけ」

「何してるかはどうでもいい」

二宮さんは淡々と言い切った。

「私が見てるのはチーム。今日はね、チームの空気を壊す人間がいたら、即退場。分かった?」

有紗は唇を噛み、私を一度だけ睨みつけて踵を返した。

二宮さんがこちらを向くと、表情がほどける。彼女は私の額のあたりに手を伸ばし、ヘアバンドの位置を直してくれた。

「聞かなくていい。あなたは私が見てきた中で、一番強くて、一番努力してるキャプテンよ」

まっすぐな声。

「今日の試合、あなたは私たちの大黒柱。自分を信じて。ね?」

その目の中の信頼に、鼻の奥がつんとした。でも泣かない。私はぐっと堪えて、強く頷く。

「……はい」

林原莉子も駆け寄ってきて、私の手をきゅっと握った。

「亜美、大丈夫。私たち、信じてる」

他の子たちも次々に集まり、肩を叩いたり、拳を合わせたりしてくる。

「キャプテン、いける!」

「絶対勝てる!」

「見せつけよう、うちの強さ!」

若く、真っ直ぐで、勝利への熱を宿した彼女たちの顔を見ていたら、不思議と緊張が解けていった。

「みんな」

私は息を吸う。

「行くよ。ステージ!」

坂井陽の視点

リビングのテレビはつけっぱなしだった。スポーツチャンネルが先週のアメフトの試合を延々と再放送している。でも音は耳に入ってこない。

平山亜美が今日、大会だってことは知ってる。……けど、行きたくなかった。

応援メッセージも送ってない。「頑張れ」とか、そんな薄っぺらい言葉も。

どうせあいつは気にしない。亜美はいつだって、俺が何をしてるかなんて気にしないんだから。

苛立ちが腹の底で煮立って、俺はクッションを掴むと、壁に向かって思い切り投げつけた。

「クソ……!」

「陽」

階段の方から、低い声。

背筋がひやりとして、俺はゆっくり振り向いた。

「……おじさん」

居住まいを正す。

宮下駿介が階段を下り、向かいのソファに腰を落とした。

「最近、亜美と連絡してないな」

喉が詰まる。

「……なんで知ってんだよ」

「お前の母親だ」

宮下駿介は淡々と告げる。

「最近、お前が亜美の話をしないって心配してた。何かあったんじゃないか、とな」

俺は視線を逸らし、テレビ画面を睨んだ。

「……あいつ、忙しいんだよ。選手権で。今日も試合だし、俺に構ってる暇ない」

「今日?」

宮下駿介が顔を上げる。目が硬くなる。

「じゃあ、なぜ行かない」

「俺は……」

乾いた唇を舐める。

「チームがある」

「何が」

「練習。来週、重要な練習試合があって……監督が――」

「陽」

遮られて、言葉が喉で止まった。

宮下駿介は立ち上がり、リモコンでテレビを消す。

ぶつり。

部屋の中から音が消えた。静寂が、余計に心臓の音を浮かび上がらせる。

宮下駿介がこちらを向く。

「俺を見ろ」

俺はぎこちなく顔を上げ、その目とぶつかった。

「お前は何から逃げてる」

「逃げてねえよ」

「逃げてる」

短く言い切られた。

「先週からずっとだ。練習を見に行かない。連絡もしない。名前も口にしない。なぜだ」

俺は口を開いて、閉じた。

「……あいつさ。練習のことしか頭にない。俺のことなんて――」

「つまり」

宮下駿介は静かに言う。

「女の子が努力して、自分の好きなことに打ち込んでいるのが気に入らない。そう言いたいのか?」

「違う!」

反射で声が出た。

「そういう意味じゃ――」

「だが、お前はそういう振る舞いをしている」

宮下駿介の視線が揺らがない。

「陽。女の子に恋愛のために夢を捨てろと強いるのは、無責任だ。……その上、それで腹を立てるなんて厚かましいにも程がある」

何も言えなかった。

宮下駿介は車のキーを取り出し、俺の前に差し出す。

「今なら間に合う。行け」

その手のひらのキーが、やけに眩しく見えた。

本当は受け取りたかった。俺たちには、きっかけが必要だったのに。

でも――

意地が首を横に振らせた。

「行かねえ!」

平山亜美の視点

得点ボードが点いた瞬間、全員が息を止めたのが分かった。

州立大学チアチーム、総合98.7点。第1位。

地区優勝。

私はその場に立ち尽くした。次の瞬間、二宮さんに力いっぱい抱きしめられる。周囲が爆発みたいな歓声に包まれた。

「亜美! やった! やったよ!」

トロフィーが私の手に渡されたときも、まだ現実感がなかった。

腕が震える。それでも、私は必死に持ち上げる。高く、もっと高く。

カメラが私を追い、フラッシュが白く弾けた。

私は笑った。笑いながら、涙が溢れてきた。

今夜は打ち上げだ、大盛り上がりで食べるぞ、とみんなが騒いで、二宮さんも笑って頷いた。

バスに乗る前に、休憩室でメイクを落として着替えることになった。

私はトイレに入り、顔の濃い化粧を少しずつ拭き取っていく。

メイクなんて自分でしたことがないし、落とし方も手順も分からない。うっかり擦りすぎて、頬のあたりがまだらになった。

鏡を見て、思わず吹き出す。

しばらく間抜けな顔で笑ってしまって、慌てて水で洗い流し、顔を拭いて外へ出た。

――その瞬間。

休憩室に、誰もいなかった。

心臓がどくんと跳ねる。

慌てて廊下へ飛び出し、外へ回る。

さっきまでバスが停まっていた場所が、空っぽだった。

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