第1章 私はあなたの妻よ。
彼女は三年間、彼の身の回りを支え続けた。
それなのに――彼が完治した途端、彼女を蹴り落とし、昔の恋人を正妻の座へ押し上げようとしている。
——
望月朝夜は研究室で一日中働き、帰宅するなりぬるめの湯と、開発中の新薬を手にして、結城永司の部屋へ向かった。
三年間、来る日も来る日も同じことの繰り返し。幸いにも、結城永司はもうすぐ完全に回復する。
扉は半開きだった。ノックをする間もなく、部屋の奥から女の甘ったるいすすり泣きが漏れてくる。
「永司さん……もう、どうにもならないの。私とお腹の子は、あなたにすがるしかないの」
望月朝夜はトレーを握り締めた。指先が冷えていく。
忘れるはずのない声だ。
数日前、彼女の元に届いた艶めいた音声――そこでも、この女がこう喘いでいた。
『永司さん……優しくして……もう無理……』
続いて、激しく打ちつけ合う音。男の低い吐息。
間違いなく、録音の二人は交わっていた。相手の男が誰か、想像するのが怖くて、結城永司には一度も口にしなかった。
今、扉の隙間から見えたのは――ベッドの上。深いVネックの肩出しキャミソールを着た女が、結城永司の胸にしがみついている。
そして、夫は彼女を突き放さない。むしろ背に手を回し、軽く叩いて宥めていた。
「怖がるな。俺がいる」
望月朝夜が一度も聞いたことのない、柔らかな声音。
心臓を鷲掴みにされたみたいに痛くて、息が詰まる。
三年前、結城永司は稀な病を発症し、下半身の麻痺を繰り返した。回数は増える一方で、結城家は後継を替えるとまで囁かれた。
それでも彼女は迷わず結城永司に嫁いだ。チームを率い、寝る間も惜しんで研究し、自らの身体で試薬まで行った。――だからこそ、結城永司は完治目前まで来たのだ。
結城永司は言った。裏切らない、と。
なのに今、別の女を抱いている。
「永司さん……私を、一生守ってくれる?」
涙を浮かべて見上げる女の顔が、扉の隙間からはっきり見えた。
望月朝夜は息を呑む。
――相馬万珠。
望月家の本物の令嬢。結城永司の元婚約者。
結城永司が低く答える。
「万珠。無理して俺に媚びるな。お前と子どもは、俺が一生面倒を見る」
子ども……?
相馬万珠が、結城永司の子を――。
望月朝夜は奥歯を噛み締めた。苦いものが喉の奥に溜まっていく。
進捗を早めるために自分で薬を飲み続け、副作用で身体はボロボロだ。授かれないと言われたこともある。
それなのに彼は、他の女を妊娠させた。
では自分は、何だ。妻とは、何だ。
もう見ていられなかった。望月朝夜は扉を押し開け、足を踏み入れる。
トレーを机に叩きつけた。ガン、と鈍い音が部屋に響く。
相馬万珠が驚いたように目を赤くし、怯えた子どものように結城永司の背へ隠れた。
「朝夜さん……怒らないで……」
結城永司は相馬万珠の肩を押さえ、望月朝夜を冷たく見据えた。
「何の用だ」
あまりにも分かりやすい温度差。
相馬万珠は守るべき恋人で、妻の自分は警戒すべき敵――そんなふうに見える。
望月朝夜は笑ってしまいそうだった。妻なのに。夫は、自分が恋人を傷つけるとでも思っている。
彼の冷酷な表情を直視できず、喉が詰まる。
「結城永司……彼女と子どもを一生面倒見るって言った。じゃあ私は? あなたの妻は、何なの」
結城永司の目が沈む。
「妻って身分は、俺が認めて初めて成立する」
望月朝夜は呆然とした。
治った瞬間、捨てる気なのか。
握り締めた拳に、最後の矜持を込める。
「この場所は、相馬万珠に渡さない」
「お前に決める権利はない」
結城永司は冷え切った言葉を吐き捨てた。
「永司さん、朝夜さんにそんな言い方しないで……」
相馬万珠が涙を零す。
「だって、朝夜さんは三年間あなたを看病してくれたんだもの……苦労だって――」
結城永司は鼻で笑った。
「お前は身分を奪われて外で苦労した。やっと学校を出た。お前が連れてきたチームが俺の古傷を治したのに、研究成果まであいつに奪われた。それでも庇うのか?」
相馬万珠から手を離し、一歩踏み出して望月朝夜へ迫る。
背の高い影が圧を帯び、空気が重くなる。
「望月朝夜。俺は治った。この取引は本来ここで終わりだ。だが爺様を喜ばせた功で、結城奥さんの椅子には一生座っていろ。余計な欲を出すな。お前の汚い腹で万珠を貶めるな」
望月朝夜はようやく顔を上げた。白黒のはっきりした瞳は、死んだように静かだ。
「……取引、だったのね。三年も一緒にいた私より、相馬万珠の言い分を信じるの? 私があなたの枕元にいた三年は、何だったの」
結城永司の無感情な顔に、わずかな揺れが走った。口を開きかけた、その瞬間。
背後から相馬万珠が遮る。
「永司さん……先に送ってくれる? ちょっと疲れちゃって……」
たった一言で、結城永司の意識は彼女に引き寄せられる。
「分かった。先に帰ろう」
相馬万珠が怯えたように望月朝夜を見て、小さく尋ねた。
「永司さん、朝夜さんは……」
「放っておけ」
結城永司は有無を言わせず、彼女を庇うように外へ向かった。
すれ違いざま、望月朝夜が呼び止める。
「結城永司」
名前だけで、胸が痛い。それでも声は凪いでいた。
「……離婚しましょう」
あまりに静かな声。波紋ひとつ立たない。
結城永司が足を止める。
「考え直したのか?」
――考えた。
他人に「結城家が買った延命道具」だと言われてもいい。望月家の取り違えの偽令嬢だと言われてもいい。
ただ一つ、耐えられない。
愛されないこと。信じてもらえないこと。
相馬万珠の妊娠と、結城永司の不信は、望月朝夜の頬を容赦なく叩いた。
「結城奥さんの席は譲る。子どももいるなら、爺様だって反対しないはず」
望月朝夜は淡々と続けた。
「あなたを治すために三年の青春を使って、命の半分を賭けた。今あなたは治って、結城社長は元通りの栄光。……私も、消えるべきでしょう」
結城永司の声は氷のようだった。
「いい。ただし結城家の財産に手を出すな。お前が触れていいものじゃない。爺様が気に入ってなければ、今日まで置いてもいない」
脅しだ。身の程を知れ、と。
望月朝夜はこれ以上の屈辱を受け取りたくなかった。
「財産はいらない。一円も。私のものだけ持って行く」
自嘲の笑いが漏れる。
「結城永司。私があなたと結城家なしじゃ生きられないとでも? 三年前、あなたを死線から引き戻した。三年後の今だって、私は自分で生きていける」
