第4章 お前は何様だ
目障り極まりない。
車内の空気が、ひやりと沈んでいた。
結城永司の視線が、林田修の手――望月朝夜の腕に添えられた指先から、朝夜の顔へと移る。
「そいつは誰だ」
胸が詰まる。息をするだけで喉が渋い。
まだ離婚は成立していない。法的には、自分は結城奥さんのままだ。
深夜、見知らぬ男と路肩に並び、親しげな距離で立っていれば――誰だって誤解する。
けれど、どうして自分が説明しなくてはいけない?
相馬万珠の言い分を信じ、同じ枕を並べた妻の言葉は信じない夫に、何を言っても届くのか。
それに、彼は相馬万珠と……。
「あなたには関係ない」
関係ない、だと。
結城永司の瞳が、ゆっくりと暗く沈む。
結城家の門を出た途端、次の寄りかかり先でも見つけたというのか。
車のドアが押し開けられ、結城永司が冷気を纏って降りてくる。
高い影が迫り、圧が増す。目は最初から最後まで、望月朝夜に張りついたまま。
その視線には、嘲りと蔑み。
「望月朝夜。そんなに男が欲しいのか」
柔らかいところを狙って、言葉が突き刺さる。
自分は相馬万珠と曖昧で、子どもまで作っておきながら。
こちらは何もないのに、なぜ一方的に辱められなければならない。
怒りで身体が震え、顔色はさらに白くなる。
「結城永司……言葉に気をつけて!」
結城永司は冷笑し、口の端だけで弧を作った。
「事実だろ。お前が必死で俺に嫁いだのは金のためだ」
彼は林田修を上から下まで値踏みするように眺める。
「俺が治って、もう旨味がないと分かったら……すぐ次に乗り換えたか?」
林田修が耐えきれず、前へ出た。朝夜を背に庇い、結城永司の氷の視線を正面から受け止める。
「言い方を改めてください。あなたと朝夜の間に何があろうと、そんな侮辱は許されません」
望月朝夜が、他の男の背に隠れる。守りを求めるような、か弱い姿。
結城永司の目が、底まで沈み切った。
――笑える。
自分の前では強がって見せるくせに、他の男の前では守られる清純派か。
「お前は何の立場で俺に説教する」結城永司の声に氷が張る。「闇男か?」
「……っ!」
林田修の表情が変わり、拳がぎゅっと握られた。
望月朝夜は彼の袖を掴む。
「修、先に行って。これは私の問題だから」
「朝夜、でも……」
「私が片づける」
朝夜は、落ち着いた目で言い切った。
林田修はその決意を見て、結局頷く。去り際、結城永司へ警告の視線を残して。
人影が遠のいてから、望月朝夜は結城永司へ向き直った。
「満足?」
「望月朝夜。カードを凍結したのは、お前を目覚めさせるためだ。くだらない夢を見るなってな」
結城永司の声は冷たかった。
「……だが、想像以上に底が抜けてる」
視線が、彼女の何もない指先と、足元のスーツケースへ落ちる。
「手ぶらで出る? 誰に見せる演技だ」
心が、穴だらけになっていく。
三年間の献身は、彼の中では計算づくの芝居。
自分は金と地位が目的で、病の彼に嫁いだ。治った今は捨てて、別の枝へ――。
完璧な理屈。
望月朝夜は笑った。泣きそうになるほど。
「そう。全部あなたの言う通り」
顔を上げ、冷たい視線を真正面から受ける。
「私は金目当てで、底なしで、悪い女。だから離婚する。私もあなたも、解放して」
結城永司が彼女の手首を乱暴に掴む。
「離婚? 望月朝夜、お前は結城家を何だと思ってる。来たいときに来て、出たいときに出られる場所だと?」
手首に走る激痛に眉が寄る。だが朝夜は抵抗せず、冷たく見返した。
「じゃあ何? 私に結城奥さんの座に居座らせて、相馬万珠の目障りになり続けろって?」
結城永司は言葉を失う。
離婚したくない。少なくとも今は。
爺様は彼女を気に入っている。彼女にはまだ用がある。
そして何より――自分を出ていった女が、すぐ別の男の腕へ入るのが許せない。
結城永司は手を放し、ポケットからハンカチを取り出した。
さっき触れた指を、ゆっくり丁寧に拭う。
そして、そのまま近くのゴミ箱へ放り投げた。
露骨な嫌悪。
「最後のチャンスだ」
いつもの冷淡さと傲慢さが戻る。
「今すぐ俺と結城家へ戻れ。爺様の顔を立ててやる。今までの騒ぎはなかったことにしてやる」
「戻る?」望月朝夜は心底呆れた。「戻って何をするの。あなたと相馬万珠の愛の劇を見て、拍手でもすればいい?」
「爺様の世話だ」
結城永司は苛立たしげに言う。
「結城家の嫁としての務めだ。忘れるな。結城家がなければ、お前は何者でもない」
世話。務め。
彼女の価値は、爺様に気に入られる都合のいい女でいることだけ?
望月朝夜の心が、すとんと冷え切った。
この端正で残酷な男を見ていると、三年が笑い話に思える。
「結城永司」
静かに言う。
「みんながあなたの周りを回るべきだと思ってる? 結城奥さんの肩書きをくれたのが、大恩だと?」
一歩踏み出し、目を見据える。
いつもは従順だった瞳には、今、氷しかない。
「言っておく。結城奥さんなんて要らない。爺様の世話はあなたの責任でしょ、私じゃない」
声は凪いでいた。
「私は望月朝夜。たとえ何者でもなくても、もう二度とあなたの道具にはならない」
結城永司の顔が、暗く沈む。
「望月朝夜……よくそんなことが言えるな」
「どうして言えないの?」朝夜は問い返す。
「施しじゃない。結城永司、勘違いしないで。私たち、もう何も借りてない」
そう言い捨て、望月朝夜は彼を一瞥もせず背を向ける。
そのまま、振り返らずに歩き出した。
