第5章 彼女は何様だ

結城永司は、望月朝夜のほっそりした背中が車の流れへ溶けていくのを見つめたまま、胸の奥に正体の知れない火が詰まっていた。熱いのに、ひどく不快で、全身のどこにも居場所がない。

――どうして平然と去れる。

――何の権利があって。

手ぶらで出る。結城奥さんの座なんて要らない。いったい誰に向けた芝居だ。

永司はドアを乱暴に開けて車に乗り込み、拳でハンドルを叩いた。

荒唐無稽な発想が、頭の中で形になる。

このまま結城奥さんを続けさせる。そうすれば――彼女が必死に奪い取った椅子が、最後には何ひとつ生まないことを、目の前で思い知らせられる。

エンジンが唸り、車は夜気を裂いて走り出す。

見せてみろ。骨があるなら。

三日もすれば、戻って土下座するはずだ……。

……

望月朝夜が少し歩いたところで、一台の車がそっと並走し、脇に停まった。

窓が下りる。去ったはずの林田修だった。

「乗って」修の声は穏やかだった。「送るよ」

朝夜は彼を見つめ、やがて小さく頷いてドアを開け、助手席へ滑り込む。

「……ありがとう」

「僕らの間で、それはいらない」

修は前を見たまま問いかける。

「君……これから、どこへ行くつもり?」

朝夜は答えられなかった。

どこへ――。

街は広いのに、自分の居場所だけが見つからない。

修はそれを察したのか、ハンドルを切って高級マンションの地下駐車場へ入った。

「ここに空き部屋がある。ずっと誰も住んでない。嫌じゃなければ、しばらく使って」

「だめ」朝夜は即座に首を振る。「迷惑をかけられない」

「朝夜」

車を停め、修は真正面から彼女を見る。真剣な目だった。

「僕ら、友達だろ。今の状況でホテルは危ない。ここは警備もいいし……君が一人だと心配なんだ」

部屋は家具付きの3LDK。シンプルで温かい内装で、塵ひとつない。手入れが行き届いているのが分かる。

「暗証番号は君の誕生日」修は玄関の棚に鍵を置いた。「必要なものがあったら言って」

朝夜は部屋を見回し、胸の奥にいくつもの味が溜まっていく。

バッグからカードを一枚取り出した。

「修、借りる。これは家賃」

「何を……」修が眉をひそめる。

「親しいほど、線引きは必要」朝夜はカードを彼の手に押し込んだ。「友達だと思うなら受け取って。これは結婚前の貯金。受け取らないなら、私は今すぐ出る」

譲る気はない――その顔だった。

修はしばらく彼女を見つめ、やがて諦めたように息を吐いた。

「分かった。君の言うとおりにする。先に休んで。食べ物と日用品、買ってくる」

修が出ていって、朝夜はようやく息を吐けた。

ふらりとソファへ身を投げ出し、天井を見上げる。頭の中は真っ白だった。

どれほど時間が経ったのか。

大袋を抱えた修が戻ってくる。

「先に食べよう」

並べられた料理は、彼女の好みの味だった。

箸を取り、一口――その瞬間、胃の底がぐらりとひっくり返る。

「……っ」

朝夜は口を押さえて洗面所へ駆け込み、吐き気に襲われた。胃の中身を吐き切っても、まだ込み上げてくる。目の前がちかちかする。

背中に、修の手がそっと当たる。

「大丈夫? 変なもの食べた?」

朝夜は口をすすぎ、首を振った。顔色は紙みたいに白い。

「平気……たぶん疲れてるだけ」

自分の身体のことは、分かっている。

薬の研究のために試したものは多すぎて、身体はとっくに消耗しきっている。月のものもずっと不規則で、医者には妊娠しにくいと言われていた。

だから、別の可能性なんて――最初から考えもしなかった。

食事を終えると、修は帰った。

静かな部屋に一人きりになったところで、スマホが震えた。

チームのグループチャットだ。

通知が一気に流れ込む。

【フィルズ国際医薬コンテスト、金賞獲った!!!】

【やばい! 賞金$5,000,000! 何買う!? バッグ? 時計? 島!?】

【ボスどこ!? @望月朝夜 優勝だよ!】

【ボス、来週帰国するよ! お土産も買った! 祝勝会しよう! 先生も呼べない?】

【そうそう! この金賞で、先生と仲直りしようよ。三年も口きいてくれないし】

画面の文字を追ううち、凍りついていた胸の奥に、ほんの少しだけ熱が灯った。

彼らは、朝夜が一から育てたチームだ。この大会のために、三年かけて準備してきた。

彼らの言う「先生」は、朝夜の恩師であり、薬学研究の泰斗でもある。

三年前、結城永司と結婚するために、恩師と進めていた大きなプロジェクトを捨て、永司の病の研究へ移った。恩師は激怒し、それ以来、彼女とは連絡を絶った。

「仲直りしようよ」

その一文に、指がしばらく止まる。

そして、たった一文字を打った。

【うん】

今こそ、先生に会いに行くべきだ。

そして、自分のものを取り戻す。

……

翌朝、朝夜はタクシーで望月グループ傘下の医薬研究所へ向かった。

三年間働いた場所。廊下の曲がり角も、空調の匂いも、身体が覚えている。

だが中核実験区のゲートにカードをかざした瞬間――

ピィィッ、と耳を刺す警報。

【権限認証に失敗しました】

次の瞬間、横からねっとりとした声が飛んできた。

「おやおや、結城奥さんじゃないですか。結城家に追い出されて、今度は入館もできませんか?」

研究所の副部長。以前から彼女を露骨に疎んじていた男だ。

朝夜は取り合わず、スマホを出して望月会長へ電話をかけようとする。

だが太田副部長が手首を押さえ、嬉々として告げた。

「無駄ですよ。望月会長の命令です。あなたはクビ」

朝夜の動きが止まる。

「……解雇?」

「そうです」太田は腕を組み、勝ち誇った顔を作る。「まだ自分が昔の「望月先生」だと思ってる? 時代は変わりましたよ。万珠さんが連れてきたチームは、あなたの百倍優秀だ。あなたの研究成果なんて、もう全部食い尽くした。用済みです」

さらに身を寄せ、二人にしか聞こえない声まで落とす。

「ついでに言っとくと、あなたのオフィスはもう万珠さんの。あなたの物は邪魔なんで、清掃にゴミ箱へ捨てさせました」

朝夜の目が、一気に冷えた。

「……何ですって」

あの中には、恩師から贈られた絶版の文献がある。三年分の研究手稿もある。

それを――ゴミ?

太田は、彼女の反応が愉快で仕方ないという顔で、ゆっくりと言い切った。

「あなたの物は、ぜんぶ、ゴミです」

口元の笑みが醜く広がる。

「望月朝夜、今のあなたは何者でもない。望月家にも結城家にも捨てられた、ただの負け犬だ。戻れると思ってるなら……いい夢見てるな」

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