第7章 彼の高嶺の花

望月朝夜はあまり気に留めなかった。最近はプレッシャーが強すぎて、生活リズムも崩れている。きっとそのせいだ。

こめかみの重さを揉みほぐし、立ち上がって水でも飲もうとした。

リビングは照明をつけていない。窓の外、商業ビルの巨大なLEDビジョンだけが、けばけばしい色彩を投げ込んでくる。光と影が、彼女の頬の上でちかちかと明滅した。

そのとき、画面の広告が切り替わり、地域の経済速報になる。

「本市の最新ニュースです。結城グループは本日、帰国した医学博士・相馬万珠氏が率いるAI医療研究プロジェクトに、10億の投資を行うと発表しました。本プロジェクトは神経系疾患へのAI補助治療の難題に挑むもので、今後5年以内の飛躍的進展が期待されています……」

女性キャスターの淀みない声が、ガラス越しに少し歪みながらも、言葉だけははっきりと届いた。

画面の中で、結城永司と相馬万珠が肩を並べて立っている。

結城永司は仕立てのいい濃色スーツに身を包み、背筋はまっすぐ。カメラに向ける表情は、いつも通り沈着で冷たい。

隣の相馬万珠は、白いシャネルのセットアップ。完璧に整えられたメイクで、上品に、やわらかく笑んでいた。

記者がマイクを結城永司へ差し出す。

「結城社長、今回の巨額投資を決断された理由は? これは結城グループの戦略の重心が、今後バイオ医療へ移ることを意味しますか?」

結城永司の視線が、ふと隣の相馬万珠をかすめた。

たった一瞬。なのに、その目には、望月朝夜が一度も見たことのない柔らかさが宿っていた。

「価値ある人材とプロジェクトにだけ投資する」

カメラへ向けた声は揺れない。静かで、強い。

「相馬博士の才能と先見は、それに値する」

望月朝夜はその場から動けなかった。

手足が、氷みたいに冷える。

10億。

彼は10億を叩いて、相馬万珠のために新しい最高峰のチームを用意したのだ。

心臓が、じわじわと締め付けられていく。

――全部、分かった。

望月家があれほど平然と自分を切り捨てた理由。副部長が、彼女の研究成果はもう「食い尽くした」と言い切れた理由。

最初から、代わりが用意されていた。

自分よりも華やかで、眩しくて――そして何より、結城永司に愛される代替品が。

相馬万珠。望月家の本物の令嬢。結城永司の高嶺の花。

彼女が戻ってきた瞬間、偽の令嬢である自分は、道具としての役目を終える。ゴミ箱へ放り込まれて当然。そういうことだ。

笑える。

望月家と結城永司は、ただ自分を折らせたいだけだと、どこかで思っていたのに。

違う。

彼らは、もう最初から自分を必要としていなかった。

望月朝夜は知っている。結城グループの内部は派閥が複雑だ。結城爺さんは表舞台から退いたとはいえ、影響力は今も強い。

これほど個人色の濃い巨額投資は、古参の反発を招く。

それでも結城永司は、相馬万珠のために道を敷いた。

――相馬万珠は、それほど重いのだ。

彼が、何もかも投げ出してもいいと思うほどに。

胃の底から、酸っぱいものが込み上げた。切なさと、尖った痛みが絡まり合い、喉元まで突き上げてくる。

望月朝夜の脳裏に、勝手に映像が差し込む。

結城永司と同じベッドで眠った夜。激情が引いたあと、彼は起き上がって水を注ぎ、小さな白い錠剤と一緒に彼女へ差し出した。

表情はいつも薄い。感情が読めない。

「飲め」

命令だった。

一度や二度じゃない。毎回。

理由をそれとなく訊いたことがある。

彼は冷たく一瞥しただけ。

「今は子どもはいらない」

あのときは信じた。

仕事が忙しいのだろう、と。あるいは――ただ、自分の子どもが欲しくないのだろう、と。

今思えば、なんて愚かだった。

子どもがいらないんじゃない。

彼は、望月朝夜に産ませたくなかっただけだ。

結城奥さんの椅子なら、道具に座らせてもいい。

でも、結城家の後継の母は違う。

彼が心から大事にする女でなければならない。

相馬万珠でなければならない。

全身の力が抜け落ちた。望月朝夜は壁に背を預け、そのままずるずると床へ滑り落ちる。膝に顔を埋めた。

肩が、止まらないほど震える。

声は出ない。涙だけが静かに落ちた。

三年の結婚は、最初から最後まで独り芝居。

彼の病は治した。けれど彼の心は、永遠に手に入らない。

妻だと思っていた自分は、治療と寝床を提供するだけの代替品だった。

そして今、本物が戻った。

代替品は消えるべきだ。

跡形もなく、きれいに。

——

結城グループ最上階、社長室。

秘書が書類を机に置く。

「結城社長。望月嬢の半月の動向です。医薬会社17社に応募、面接は5回……ですが、すべて不採用です」

結城永司は手元の資料から目を離さず、短く答えた。

「……そうか」

秘書が一拍置いて続ける。

「現在は城南の海宮邸のマンションに滞在中です。名義は林田修氏。林田氏は生活用品を数回運んだのみで、宿泊はしていません」

海宮邸。

林田修の部屋。

結城永司の指が止まった。

顔を上げる。感情は薄いまま。

三日で戻ると思っていた。金も気力も尽きて、頭を下げに来ると。

だが彼女は、他の男の部屋に住んででも、折れない。

「林田修」

結城永司の声に起伏はない。

「婚約者がいたはずだ。周防家の娘だったな」

「はい。周防家と林田家は以前からの縁談です。ただ林田氏が海外にいたため、正式な婚約はまだ」

「周防嬢に連絡しろ」

結城永司は視線を落とし、淡々と言い切った。

「自分の婚約者をちゃんと見張れ。何でも家に連れ込むな。汚い」

秘書の喉が小さく鳴った。

「承知しました」

……

望月朝夜は、乱暴なドアを叩く音で目を覚ました。

資料整理で連日明け方まで起きていた。頭が鈍く重い。

外の相手は待つ気がないらしく、チャイムとノックが交互に鳴り、命を急かすみたいだった。

スリッパのまま玄関へ行き、覗き穴から確認する。見知らぬ若い女が立っている。

ブランドで固めた服、完璧なメイク。それなのに表情は刺々しく、傲慢さが滲んでいた。背後には警備員姿の男が二人。

一瞬ためらったが、ドアを開ける。

「どちらさま?」

「どちらさま?」

女は望月朝夜を上から下まで舐めるように眺め、汚物でも見るように鼻で笑った。

そして返事も待たず、望月朝夜の脇をすり抜けて部屋へ踏み込む。ヒールが床をカツカツと叩き、威圧する音が響いた。

「周防雅姫。林田修の婚約者よ。――あんたが、私の婚約者の部屋に住み着いた泥棒猫?」

望月朝夜の眉が寄る。

林田修の婚約者? そんな話、聞いたことがない。

「誤解です。ただの賃貸です」望月朝夜は押し殺した声で言った。

「賃貸?」

周防雅姫は部屋を見回し、リビングの床に広げられた手稿や書類に目を落とす。蔑みがいっそう濃くなった。

「身体で払ってるんじゃないの。望月朝夜、恥を知りなさいよ。結城家に追い出された途端、林田修に縋りつくなんて。林田家をゴミ処理場だと思ってるの?」

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