第8章 自業自得
周防雅姫の言葉は、耳に障るほど下品で、容赦なく人を切り刻んだ。
望月朝夜の表情が、すっと冷え切る。
「出ていってください」
「出ていく? 出ていくのはあんたでしょ!」
周防雅姫は取り合わず、玄関脇に立つ警備員二人へ顎をしゃくった。
「その女の荷物、全部外に放り出して。汚いのよ。目障り!」
命令を受けた警備員が、すぐに動こうとする。
「やめなさい!」
望月朝夜は駆け寄り、床に広げられた手稿の前に両腕を広げて立ちはだかった。
――それは、今の彼女に残された唯一の足場。
命そのもの。
「何が「やめなさい」よ」
周防雅姫は腕を組み、鼻で笑う。
「ここは私の将来の新居。ゴミを片づけて何が悪いの? 文句ある?」
言い終えるや否や、彼女は一歩踏み込み、望月朝夜のそばの段ボール箱を思い切り蹴り倒した。
「ガラッ——」
データの走り書きで埋まった紙束、印刷された文献が、雪崩みたいに床へ散った。数枚はふわりと浮いて、玄関の外、廊下へ舞い落ちる。
望月朝夜の目が一瞬で赤く染まった。
彼女は周防雅姫を押しのけ、しゃがみ込み、散らばった紙を必死にかき集める。
押し返された周防雅姫がよろけ、火がついたように声を張り上げた。
「押したわね!? この恥知らず! 浮気相手のくせに! 人の婚約者を奪っておいて、手まで上げるとか!」
その金切り声に、近隣の住人が次々と顔を出した。
高級マンションの防音も、ここまで尖った罵声は遮れない。
あっという間に廊下には野次馬が集まり、床に這いつくばって拾い集める望月朝夜へ、好き勝手な視線が突き刺さる。
「うわ、なにこの修羅場」
「見た目は清楚なのにね」
「金のためなら何でもやるってやつか」
言葉の棘が、背中に次々と刺さる。
二十年以上生きてきて、初めて「浮気相手」として人前で罵られた。
恥と屈辱が、潮みたいに喉元まで押し寄せる。
説明したところで、この場では届かない。
望月朝夜は頭を下げるようにして、尊厳より大切な手稿だけを、ひたすら拾った。
そのとき。
エレベーターの到着音が鳴った。
数人が降りてくる。
先頭に立っていたのは、結城永司。
その隣には、花が綻ぶような笑みを浮かべた相馬万珠がいた。
望月朝夜の手が、ぴたりと止まる。
顔を上げる。
人の輪の向こうで、結城永司の冷えた視線と真正面からぶつかった。
相馬万珠が真っ先に駆け寄ってくる。口元を押さえ、驚いたふりのまま。
「朝夜さん? どうしたんですか? まあ……お荷物がこんなに……」
心配する言葉とは裏腹に、彼女の足が「うっかり」一歩ずれる。
ちょうど、数式がびっしり書かれた手稿の上へ。
ヒールが、紙に濃い跡を刻んだ。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
相馬万珠は慌てて足を上げ、申し訳なさそうに微笑む。
「わざとじゃないんです」
周防雅姫は結城永司を見た途端、さらに勢いづいた。
指を突きつけ、告げ口するように叫ぶ。
「結城社長、ちょうどいいところに! この女ですよ! 私の婚約者、林田修をたぶらかして! 挙げ句、私たちの新居に居座って出ていかないの!」
相馬万珠も望月朝夜を見て、胸が痛むような顔を作る。
「朝夜さん……そんなこと、しちゃだめです。永司さんと別れてつらいのは分かります。でも……だからって、他人の縁を壊すなんて。自分を粗末にしないで」
二人が息を合わせたように言葉を重ね、「浮気相手」という烙印を、望月朝夜の額に打ちつけていく。
望月朝夜は、可笑しくて仕方なかった。
彼女は反論もせず、踏み汚された手稿を拾い上げ、指でそっと埃を払う。
それから立ち上がり、結城永司をまっすぐ見た。
彼は最初から最後まで、ただ冷ややかに眺めているだけだった。
「満足?」
望月朝夜の声は掠れていた。
結城永司が口元だけで笑う。温度のない弧。
「自業自得だ」
吐き捨てるように言い、視線を彼女の抱える乱れた紙束へ落とす。
嘲りが、さらに濃くなる。
「望月朝夜。俺は機会をやったはずだ」
低く、押し殺した声。
「大人しく結城奥さんをやってればよかったものを。外で恥を晒して」
――やっぱり。
これも、彼が見せたかった景色だ。
離れた瞬間、彼女は何者でもなくなり、こうして踏みにじられるだけだと。
望月朝夜は資料を抱え直し、指先に力を込めた。紙の角が掌に食い込み、痛い。
「結城永司」
彼女は笑った。
「あなたの勝ち」
それ以上、彼も、周囲の視線も気にしない。
皺だらけになった資料を丁寧に箱へ戻し、静かに整える。
そして背筋を伸ばし、もう一度、結城永司を見る。
顔色は青白く、唇には血の気がない。
それでも、瞳だけが異様なほど澄んでいた。
「結城社長。あなたの勝ち。私の負けです」
一呼吸置いて、淡々と言う。
「だから――いつ離婚の手続きをしますか?」
廊下の空気が凍りついた。
誰もが、正妻が浮気相手を追い詰める騒ぎだと思っていた。
その「浮気相手」と罵られている女が、隣に立つ権力者と離婚すると言い出すなど、想像していなかったのだ。
結城永司の顔色が、完全に沈む。
離婚。
また、それか。
そんなに急いで縁を切って、林田修と堂々と――そういうことか。
「望月朝夜」
怒りを押し殺し、低い声で言う。
「いい加減にしろ。ふざけるな」
望月朝夜は薄く笑う。
「結城永司。あなたの目には、私が従わないことは全部『騒ぎ』に見えるの?」
彼女は一歩、前へ。
「もう一度言います。離婚します。私のものじゃないものは何ひとつ持っていかない」
視線を横へ流し、この部屋を示す。
「ここも、ただの仮住まい。家賃は払ってあります」
周防雅姫が黙っていられるはずがない。
「家賃? 誰が信じるのよ! あんたと林田修、幼なじみなんでしょ。幼馴染! 裏で何してるか分かったもんじゃない!」
幼馴染。
結城永司の眉間が、きつく寄る。
望月朝夜は、その言葉を否定しなかった。
その沈黙が、結城永司には肯定に見えた。
「このクズ!」
周防雅姫はさらに罵り、腕を振り上げる。
望月朝夜の頬を打とうとした、その瞬間――。
