第1話
結婚記念日のその日。夏目葵(なつめ あおい)は藤原和也(ふじはら かずや)のスーツを整えている最中、ポケットから黒いストッキングを見つけた。
葵は普段ストッキングなどほとんど履かない。しかもそれは妙にいやらしく、下品なデザインで--どう見ても自分のものではない。
指先でつまむと、ひやりと冷たい。
そのとき玄関の鍵が開く音がして、続いて女の甘ったるい笑い声が聞こえた。
「和也、私を家に連れてきて……葵、怒らない?」
顔を上げた葵の視界に、和也が女を抱くようにして入ってくる姿が映る。
女を見た瞬間、胸の奥がきゅっと縮んだ。
見知った顔だ。和也の初恋の相手、九条雪菜(くじょう ゆきな)。
和也は片腕で彼女の腰を抱き、もう片方の手に小さなスーツケースを提げていた。
葵を見ても眉をわずかにひそめただけで、説明のひとつもなく、そのまま雪菜を連れてリビングへ入ってくる。
葵は冷えた声で言った。
「……どういうこと?」
和也が口を開くより先に、雪菜が割り込む。
「葵、誤解しないで。母が亡くなったばかりで……一人でいるのが怖いの。和也が心配して、数日ここにいさせてくれるって」
葵の手のストッキングに気づくと、雪菜ははにかむように和也の胸へ寄り、頬を赤らめた。
「それ、前にスカートに引っかけて破れちゃって、替えたやつ……どうして和也のところに?」
含みのある声色。艶っぽい言い回し。
葵は黙り込む和也を見た。声が震える。
「……説明、してくれないの?」
覚悟はしていた。それでも、彼の態度を知りたかった。
「説明することでもないだろ」
和也は淡々と言い、葵を見る目には露骨な倦怠が浮かんでいた。
「妻ぶって、俺を問い詰めるな。そもそも、お前が必死にうちの祖母に取り入らなきゃ、俺が結婚したと思うか?」
葵はその場で固まった。握りしめた指の関節が白くなる。
法的な妻だから何だというのか。和也は彼女を愛していない。むしろ、恨んでいる。
「葵、誤解しないで。私と和也は何も--」
雪菜は慌てて言いながらも、腕は和也に絡めたまま。
和也はうっとうしそうに眉を寄せた。
「相手にするな。母親が亡くなったばかりなんだ。俺がそばにいるのは当然だろ」
幼なじみの二人。雪菜の母親も和也を可愛がっていた。葵がいなければ--きっと、とっくに家庭を持っていた。
「そう。初恋の人がどれだけ大事かって話ね。お母さんがいなくなったからって、全部投げ出して駆けつける」
葵は痛みを噛みしめながら言葉を継ぐ。
「私の父が死んだときは? 葬式にすら来なかったくせに」
その言葉を口にするだけで、胸が張り裂けそうだった。
二年前。父を亡くした彼女に、和也は『仕事が忙しい』の一言で姿を見せず、弔意の品だけを大量に送ってきた。
母の夏目奈央(なつめ なお)は不満を漏らし、葵はそれでも彼をかばった。
今の態度。あまりにも皮肉だ。
和也が返す前に、雪菜がまた口を挟む。
「葵、全部私が悪いの。母の死が受け入れられなくて……和也が私を支えてくれただけ。お願い、和也を責めないで?」
「へえ」
葵の唇が冷たい笑みを描く。
「じゃあ、もう平気なんでしょ? それなのに、いつまで私の夫に絡みつくの?」
和也が即座に不機嫌になった。
「葵、いい加減にしろ。くだらない騒ぎを起こすな」
「くだらない騒ぎ?」
その瞬間、葵の感情が堰を切った。
涙で赤くなった目で雪菜を指さし、叫ぶ。
「今日は結婚記念日なの! それなのに初恋の女を連れて、平気で家に上がり込む……私を何だと思ってるの?!」
けれど、彼女の悲痛な叫びも彼の顔に罪悪感を一欠片も浮かばせない。むしろ、さらに苛立ちが濃くなる。
「もういい! ヒステリーみたいに喚くな。雪菜の休みの邪魔になる」
そう言って、和也は雪菜を支え、二階の寝室へ向かった。
葵は絶望とともに二人の背中を見送る。三年間の結婚生活が、最初から最後まで笑い話だった気がした。
静かな声が自分の口から落ちる。
「離婚しましょう」
和也が足を止め、ゆっくり振り返る。
「……何だって?」
彼の中の葵は、策略を巡らせて藤原家に入り込んだ女だ。簡単に離婚など口にするはずがない。
「離婚よ」
葵は繰り返す。
「あなたが初恋の人を忘れられないなら……私は二人を成就させてあげる」
和也の顔色が沈む。
「覚悟はできてるのか?」
「できてる」
雪菜が慌てて割って入った。
「葵、そんな意地を張らないで。和也とちゃんと話して--」
「話すことなんてない」
和也は鼻で笑う。
「離婚したいならすればいい。俺を離れて、どこへ行けるのか見ものだ」
そう言い捨て、雪菜を連れて上へ消えた。
葵はがらんとしたリビングに立ち尽くし、しばらくしてから二階へ向かう。
主寝室の前を通りかかったとき、中から雪菜の甘い声が聞こえた。
「和也、怖いの……目を閉じると、ママの顔が……」
扉は少しだけ開いていた。
隙間から見えたのは、和也の胸にすがって泣く雪菜。
「今夜、ここにいてくれる? この前みたいに……」
和也は優しく髪を撫で、低い声で答えた。
「……ああ」
葵は目を閉じた。
心が、その瞬間に完全に死んだ。
三年間、和也は一度も彼女に触れなかった。夫婦はずっと別々の部屋で眠った。
彼が冷淡なのではない。
ただ、その優しさは最初から彼女に向けられていなかっただけ。
葵は黙って客間に戻り、ベッド下からスーツケースを引きずり出して荷造りを始める。
そのとき携帯が鳴った。
流暢なフランス語が耳に入る。
「夏目様、パリのファッションデザイン会社です。以前何度かご連絡しましたが、チーフデザイナー・アシスタントの件……ご検討はいかがでしょう?」
三年前、国際デザインコンペで優勝した彼女には、数えきれないほどのオファーが届いた。だが彼女は全部断った。
当時の彼女は和也だけを見て、家庭に入って『良き藤原奥様』になろうとしていた。
やがて連絡は途絶えたが、パリのこの会社だけは執拗に誘い続けてきた。
相手は続ける。
「社長から、ご結婚されたと伺っております。ご家族の住居もこちらで手配できますので、もしご家族のことが気がかりでしたら--」
「結構です」
葵は淡々と言った。
「行きます」
