第11話
和也は拒否されたフレンド申請を見て、眉を深く潜めた。
NAが、この俺を拒絶しただと?
深く考える間もなく、秘書からファックスで書類が送られてきた。
離婚協議書だ。
しかも、葵の奴、俺の財産の三分の一を要求している。
和也は鼻で笑い、その協議書をビリビリと破り捨てた。
やはりな。これはただの駆け引きだ。本気で離婚する気など、最初からないのだ。
葵がいまだに雪菜が梨乃を誘拐した証拠を探り回っていることを思い出し、和也の胸に再び苛立ちが込み上げた。
俺が最近、雪菜の病状のことでどれだけ頭を抱えているか知っているはずなのに、なぜもっと物分かりよく振る舞えないのか。
和也は眉間を揉みほぐしながら、秘書に電話をかけた。
「葵の口座に百万振り込んでおけ。それから適当なジュエリーを贈って、少し大人しくさせろ」
電話を切ると、和也は再びNAのアイコンをぼんやりと見つめた。
その見慣れた淡いブルーの色調に、どうしても既視感を覚えてしまうのだ。
翌日。葵は梨乃を連れて、早々に島を離れた。
マンションに戻って間もなく、重度の精神疾患を抱えた患者が病院で待っていると連絡が入った。
その厄介な患者を送り出し、葵はふうっと重い息を吐き出した。
助手がコップ一杯の水を差し出しながら、興奮しきった目を向けてくる。
「先生、本当にすごすぎます! あんなに自殺騒ぎを起こしていた患者さんを笑顔にして帰すなんて。さっきは本当に、そのまま飛び降りちゃうんじゃないかってヒヤヒヤしましたよ」
葵は消毒液で手を拭きながら、気にも留めない様子でふっと笑った。
「ただ少し心に問題を抱えた子供みたいなものよ。怖がる必要なんてないわ」
子供みたいなもの?
助手は感服したように親指を立てた。
数え切れないほどの賞を受賞してきたNAは、やはり格が違う。
あんな異常な患者でさえ、彼女にかかれば無害な子供になってしまうのだから。
葵は本来休暇中であり、今日ここへ来たのもその患者が少し特殊だったからに過ぎない。仕事が終わった今、彼女はさっさと白衣を脱いで帰る準備を始めた。
ドアの前に立ったその時、外から突然騒がしい声が聞こえてきた。
直後、バンッと勢いよくドアが押し開けられる。
和也の母、藤原雪枝(ふじはら ゆきえ)がそこに立っていた。
「あなた……?」
雪枝は驚いたように葵を見て言った。
「ここで何をしているの?」
雪枝の姿に、葵も内心驚いていた。
無意識に助手を振り返る。
――まだ患者がいたの?
助手も同じように呆然とした顔をしている。
なぜ急に見知らぬ人間が押し入ってきたのか、彼女にも状況が呑み込めていないようだ。
葵が答えないのを見て、雪枝はそれ以上相手にする気も失せたらしい。
彼女は葵を突き飛ばすようにして退け、助手の両手をがっしりと握りしめ、興奮の面持ちで縋りついた。
「あなたがNA先生ですね? 先生、どうかうちの嫁を助けてください! 酷い鬱病を患っていて、今も事あるごとに自殺しようとするんです。もう、私たちもどうしていいか分からなくて……」
助手は慌てて雪枝の手を振り解こうとした。
「あの、ご家族の方、誤解です。私は……」
「葵?」
和也が彼女を見て、その目に一瞬だけ驚きを走らせた。そしてすぐに問い詰める。
「お前、なぜここにいる」
言い終わるが早いか、彼は顔を強張らせ、露骨な苛立ちを露わにした。
「俺を尾行したな!」
葵は冷たく鼻で笑った。
「脳みそが要らないなら、必要な人に寄付でもしたら? あなたを尾行して、私に何のメリットがあるのよ」
言い捨てて、彼女は和也に庇われるように立っている雪菜へ視線を移した。
――雪枝の言う『鬱病の嫁』というのは、この雪菜のことか。
葵の瞳に浮かぶ嘲りの色が、さらに濃くなる。
「さっさと離婚協議書にサインしてくれない? じゃないと、九条さんが不倫相手だなんて噂が広まったら、色々と不都合でしょ」
その言葉を聞いた雪菜は、怯えたように和也の胸へと縮こまった。
涙ぐんだ瞳で葵を見つめる。
「葵さん、和也くんとの関係を誤解してるわ。私はそんなんじゃ……」
「私に弁解なんてしなくていいわ。二人のことは祝福してるから」
葵は冷たく遮った。
そして和也を一瞥すると、二人を通り抜けて外へ向かおうとする。
「待て!」
和也の横を通り過ぎようとした瞬間、彼の思考より先に手が動き、葵の腕を強く掴んでいた。
