第4話
和也は大股でオフィスに入ってきた。顔色は沈み、全身から重苦しい空気を放っている。
建はうつむいたまま指示を待ち、息をするのもためらっていた。
「今すぐ葵を連れて来い!」
和也は苛立ちに任せてネクタイを緩めた。あんなものを送りつけてくるなど、いい度胸だ。
少し灸をすえてやらなければ、次はもっと調子に乗るに違いない。
一方、葵は買い物を終えてマンションに戻っていた。ショッピングバッグを床に置いた途端、スマホが鳴る。
親友の酒井梨乃(さかい りの)からだ。通話ボタンを押し、笑いながらからかう。
「まだ仕事中なのに電話? お給料、引かれたいの?」
電話の向こうから軽快な声が返ってくる。
『引かれたっていいわよ。引かれたら逆に嬉しいくらい。てか、あんた今日ヤバいね。あのアダルトグッズ、あんたが送ったんでしょ?』
「うん」
葵はふかふかのソファに身を投げ出し、目を細めて笑った。
「もう広まったの?」
どうやら効果は上々のようだ。高い料金を払って即配便を選んだ甲斐があった。
『広まるどころの騒ぎじゃないわよ。配達員がロビーで商品名を読み上げてる時に、ちょうど和也が幹部連れてエレベーターから降りてきたんだから。今や会社中で持ちきり。隠しようがないわ』
『和也の顔色、どれだけヤバかったか見せてあげたかった。たぶん肺が爆発するレベルでキレてるわよ。あんたの作戦、大成功ね』
「大成功、ね」
葵の声は静かになった。
ローテーブルの上に置かれたペアカップを見下ろす。
真心を捧げる相手を間違えた。心に別の女がいる男を変えられると信じ、何年も耐え忍んできた。大成功どころか、情けないにもほどがある。
――本当に、惨めだ。
空気を察した梨乃が、慌てて慰めに入る。
『男なんて星の数ほどいるじゃない。和也よりいい男だっていくらでもいるわよ。前向いていこ。週末、ホストでも紹介しよっか?』
「いいね」
葵は笑って応じた。
しかし、電話の向こうが急に黙り込む。
葵は気にせず続けた。
「週末は予定ないし、買ったヨットが届いたの。一緒に島へ遊びに行かない?」
『……えっ!』
次の瞬間、鼓膜を破るような悲鳴が響いた。
『ついにまた遊び始めるの!? いいわ、週末はあんたがヨットを出して、私がホストを出す!』
ホスト、か。
梨乃も随分と派手に遊んでいるようだ。
「うん」
これまで散々心配をかけてきたのだ。今回は彼女の好きにさせよう。
その後も少し雑談を交わし、急な仕事が入った梨乃が名残惜しそうに電話を切った。
葵も部屋の片づけを始める。
和也と結婚して以来、ここへ戻ってくるのは久しぶりだった。
とはいえ、ここは一時の仮住まいだ。これからの生活の重心は海外になるため、大して片づけるものもない。
週末。
海辺に着くと、梨乃はすでに到着していた。セクシーな水着に身を包み、隣にはココナッツを手にした男が立って、時折彼女の口元へ運んでいる。
相変わらず派手で、世間の目など一切気にしない女だ。
「葵!」
梨乃が興奮気味に手を振る。
葵は思考を引き戻し、微笑みながら歩み寄った。
「いいじゃない」
その言葉に、梨乃は得意げに顎を上げる。
「でしょ? 私、今日めっちゃ魅力的じゃない? 惚れちゃいそう?」
「惚れた惚れた」
葵は笑って調子を合わせる。
梨乃が急に葵を抱きしめ、背中をぽんぽんと軽く叩いた。
「これからは、太陽を抱きに行こうね」
「うん」
葵はその言葉の裏にある意味をちゃんと理解し、笑みを深めた。
――が、感動に浸る間もなく、梨乃に腕を引っ張られてヨット乗り場へ向かわされる。
「ほら早く! 今日はあんたにサプライズを用意したんだから」
葵は苦笑しながら、よろめく足取りでバギーに乗り込んだ。
停泊場所に着くなり、梨乃は待ちきれない様子でヨットへ駆け寄る。
「ヤバっ、このヨットかっこよすぎ!」
葵は落ち着いていた。
このヨットは以前、和也に腹を立てたときに衝動買いしたものだ。
こっそり時間を見つけて遊ぶつもりだったが、こんなに早く堂々と乗り回せる日が来るとは思わなかった。もう藤原夫人という肩書きに縛られる必要もない。
「葵?」
背後から、不快な声が聞こえた。
振り返ると、案の定、雪菜と和也が立っていた。
葵は淡々と一瞥しただけで、すぐに視線を外す。
――俺を無視する気か?
和也は眉をひそめた。
雪菜は、葵から視線を外さない和也を見つめ、次いで葵へと目を向けた。その瞳に一瞬だけ嫉妬の炎が揺れる。
彼女は薄く笑みを浮かべた。
「葵も遊びに? この数日家に帰ってなかったみたいだけど、どこに泊まってたの? 私たちがここにいるって知って、追いかけてきたの?」
案の定、和也の顔に即座に嫌悪が浮かぶ。
「俺を尾行したのか?」
和也は途端に胸のつかえが下りたような気がして、彼女に向ける顔つきが珍しく少し和らいだ。
だが、口から出るのは相変わらず棘のある言葉だけだ。
「口では離婚だ何だと言っておきながら、俺を尾行するとはな。駆け引きのつもりか? いい加減にしろ。そんなことをしても、ますます嫌われるだけだ」
和也の目にある露骨な嫌悪を見て、葵は自嘲気味に笑った。
やがて、その瞳には冷たい嘲りだけが残る。
「ずいぶん自信満々ね? 今、離婚届にサインを渋ってるのはあなたの方よ。もし離婚したくないなら、さっさと土下座して頼めば?」
「お前……っ」
葵は和也を無視し、雪菜へ視線を移して冷ややかに言い放つ。
「あなたもあなたよ。九条さんのお母さんが亡くなってまだ数日だっていうのに、ずいぶんといいご身分ね」
雪菜の顔色が瞬時に青ざめた。
彼女はそのまま和也の胸へ倒れ込み、涙を浮かべて葵を見つめる。
「葵、怒らないで……? 私、ただ怖かったの。葵はもう和也がそばにいることに慣れてると思って……私と同じで、一人になるのが怖いんじゃないかって」
そう言いながら、雪菜は顔を和也の胸に埋める。和也も自然な動作で彼女の腰を抱き寄せた。誰の目から見ても親密な二人だ。
もう吹っ切れたはずなのに、ぴったりと寄り添う二人を見ると、葵の胸の奥にどうしようもない酸っぱさが込み上げてくる。
――彼も、愛する相手にはこうして人目も気にせず親密に振る舞い、庇うのだ。
葵は笑って言った。
「この世界に男は和也一人じゃないわ。彼がダメなら、使えるのに換えればいいだけでしょ?」
和也は反射的に、梨乃のそばに立つホストへ視線を飛ばし、顔を再び黒くした。
「あの気持ち悪い箱……やっぱりお前の仕業か!」
「気持ち悪い?」
葵はにこやかに彼を見つめた。
「母親が死んだ直後でも手を出せるような女よ。他にも何を食ってるか分かったもんじゃないわ。ちゃんと消毒済みのシリコンを、あんたが嫌がる資格あるの?」
この女……
和也の拳に力が入り、額に青筋が浮かぶ。
以前は、この女がここまで口が回るとは思いもしなかった。
「……どうしてそんなことまで知ってる」
彼は葵を睨みつけ、その瞳から何か動揺を読み取ろうとした。
葵は意味ありげに笑った。
和也の心臓が嫌な鼓動を打ち、途端に嫌な予感が込み上げる。
「夫が役立たずなんだから、こういうのを勉強するのは普通でしょ?」
言い捨てて、葵は同情めいた目を雪菜に向ける。
「お母さんが死んだばかりなのにそんなに欲求不満で……和也なんかで満足できるの?」
雪菜は羞恥で顔を真っ赤にし、和也の胸へ深く顔を埋めた。
