第5話
和也の鋭い鷹のような目が葵を射抜き、その場の空気がじりじりと張り詰めていく。
梨乃が葵の腕を軽くつつき、小声で促した。
「葵、とりあえずここ離れない?」
葵は視線を外し、頷いた。
「そうね、行こう」
これ以上、あの二人にせっかくの気分を台無しにされたくなかった。
「あの、僕の友達がもう二人着いたんですけど、一緒に夏目さんのクルーザーで島に向かってもいいですか?」
今まで黙っていたホストのジョンが、期待に満ちた目で葵を見つめる。
「葵……」
梨乃も便乗して、すがるような視線を向けてきた。
葵は微笑んで頷いた。
「もちろん構わないわ」
親友の許可を得て、梨乃はすかさずジョンに目配せをする。
「さっさとあんたのイケメン仲間を連れてきて、うちの親友の目の保養にしてやって。どこかの役立たずなED男のせいで気分が下がる前にね」
そのあからさまな皮肉を聞いて、和也の顔色がさらに険悪に沈んだ。
梨乃は鼻で笑うと、葵の腕を組んでクルーザーへと歩き出す。
二階建ての豪華なクルーザーを見上げ、和也の瞳の奥が暗く濁った。
ほどなくして、ジョンが抜群のスタイルをした二人のホストを連れて葵のもとへやって来た。
葵がホストを呼ぶなんて?!
雪菜は思わず和也の顔を窺った。
案の定、和也の表情はすでに限界まで険しくなっていた。
雪菜は無意識に和也の手を強く握りしめる。
「和也……葵さん、あのホストたちを使ってあなたを刺激しようとしてるんじゃない?」
和也は鼻で笑った。
「だとしたら無駄な努力だな」
打算まみれの女に、自分が心を乱されるはずなどない。
口ではそう言いながらも、和也の足はすでに葵のほうへと向かっていた。
彼が近づいたとき、ちょうどジョンが二人のホストを紹介し終えたところだった。
「葵さん、安心して。この二人、一晩に七回戦でも余裕ですから。一回一時間、スタミナはバッチリですよ」
葵の口角が引きつる。いくらなんでもそのアピールは……。
視界の端で和也が近づいてくるのに気づいた梨乃は、すかさず葵を急かした。
「ねえ葵、早く乗ろうよ。私、もう待ちきれない」
葵は苦笑して首を振り、四人を連れてクルーザーへ乗り込もうとした。
そのとき、背後からマリーナの支配人の困惑した声が聞こえてきた。
「藤原社長、お客様のクルーザーはあちらでございますが……」
葵が振り返ると、案の定、和也と雪菜が自分のクルーザーのそばに立っていた。
雪菜の顔色はどこか優れない。
葵は眉をひそめ、不快そうに和也を睨んだ。
「彼らがどれだけ優秀か、見学でもしたいの?」
「葵!」
和也は歯を食いしばって彼女の名前を呼んだ。
「お前はまだ藤原の妻だ。立場をわきまえろ」
「立場?」
葵の視線が、和也の腕に絡みつく雪菜の手に落ちる。彼女は鼻で笑った。
「あなたが愛人を連れ歩けるのに、私がホストを呼んじゃいけない理由なんてある? 笑い者になりたくないなら、さっさと離婚届に判を押して」
和也は怒りでこめかみをひきつらせた。
あれほど策を弄して自分に嫁いできた女が、本気で離婚する気などあるはずがない。
どうせ気を引くための駆け引きに決まっている。
和也は雪菜の腕を引き、そのまま葵のクルーザーへ足を踏み入れた。
それを見て、葵は眉を険しくし、低い声で問い詰める。
「ここは私のクルーザーよ。何をするつもり?」
「お前の? 結婚後に買ったものは夫婦の共有財産だ。一からきっちり計算してやろうか?」
和也も負けじと低い声で返す。
「……どうしても私に突っかかりたいわけ?」
葵の声がわずかに震えた。
彼女の目元が赤くなるのを見て、和也はそれ以上何も言わず、雪菜を連れてずかずかと乗り込んでいった。
葵は自嘲するように笑った。
彼が自分たちの遊びを見せつけられても平気だというなら、ここで意地を張るだけ馬鹿馬鹿しい。
彼女は気持ちを切り替え、和也たちの後を追って甲板へ上がった。
和也の姿を見て、梨乃は一瞬驚いた顔をした。
だが後ろから葵が来るのを見ると、ぱっと目を輝かせて手招きした。
「葵、早く来て! 特等席、用意してあるから」
二人のホストが気を利かせて少し隙間を空け、葵を真ん中に座らせる。
葵は歩み寄り、その間に腰を下ろした。
「フルーツ、どうぞ」
左側に座る栗毛のホストが、すかさずフォークに刺したフルーツを彼女の口元へ運ぶ。
右側のホストも負けじと、ハンディファンで彼女に風を送った。
「暑くないですか?」
二人の男に甲斐甲斐しく世話を焼かれる葵を見て、和也の瞳にどす黒い憎悪が走った。
他の男とあんなに密着するなんて、正気か!
「和也、私……少し疲れちゃった」
雪菜が和也にすり寄り、彼の気を引こうとする。
和也はハッとして視線を戻し、気遣わしげに彼女を見た。
「どこか具合でも悪いのか?」
彼女はふるふると首を振る。
「久しぶりに船に乗ったから、少し酔っちゃったみたい。……ちょっとだけ、寄りかからせて?」
「ああ、あっちに座ろう」
和也は雪菜を慎重に支え、少し離れたソファに座らせた。
その光景を見て、梨乃はやれやれと首を振る。
彼女は葵の肩をポンと叩いた。
「やっぱり離婚して正解ね。あんなクズ、あんたには釣り合わないわ」
そう言って、梨乃はわざとらしくため息をつく。
葵は気にする素振りも見せず、むしろふっと笑みをこぼした。
「別にいいじゃない。お互い好き勝手遊ぶほうが、気楽でいいわ」
言い終わるか終わらないかのうちに、今度はマンゴーが口元に差し出された。
葵はそのまま口を開けて受け取り、右側のホストに肩を揉ませる。
この二日間ずっとデザイン画を描いていたせいで、腕が少し張っていたのだ。
随分とご満悦なことだ!
和也は雪菜の世話を焼きながらも、その視線はチラチラと葵のほうへ向かっていた。
和也の放つ威圧感があまりに強烈で、葵はすぐに興ざめしてしまった。
彼女は立ち上がり、甲板の端で海釣りを楽しんでいる梨乃とジョンのそばへ行き、静かに見学した。
葵が来たのを見ると、梨乃は釣竿を彼女に押し付けた。
「ほら、あんたも楽しんで」
竿を渡すなり、梨乃はさっさと日陰へ涼みに行ってしまう。
ジョンが小首を傾げ、葵に向かってはにかむように笑った。
そのあまりに純粋な笑顔を見て、葵も思わず笑みを深める。
「釣りは初めて?」
ジョンはこくりと頷いた。
「実家が少し大変で……大学の学費が払えないから、時間があるうちに稼いでおこうと思って」
その澄み切った瞳と見つめ合っていると、葵の中にふと庇護欲のようなものが芽生えた。
「それは大変ね。いくら足りないの? 私が援助してあげようか?」
それを聞いてジョンは一瞬きょとんとし、すぐに笑って首を振った。
「同情なんてしないでください。僕だって、ちゃんと自分の労働で稼いでるんですから。もし僕のことが心配なら……これからたくさん指名してくださいね?」
彼は葵にすっと顔を近づける。その澄んだ瞳には、彼女の姿だけが映っていた。
これほど整った顔立ちが不意に目の前に迫り、一人のデザイナーとして、彼女の心はわずかに疼いた。
その美しい顔が本物かどうか、思わず触れて確かめたくなる。
ガチャン――!
「きゃっ!」
雪菜の短い悲鳴が上がった。
和也はハッと我に返り、気まずそうに彼女を見た。
「すまない、よそ見していた」
彼はペーパータオルを差し出し、雪菜の服にこぼれたフルーツジュースを拭かせた。
だが、その目はまだ葵のほうに釘付けになっていた。
くそっ!
俺を刺激するためとはいえ、あんなホストとあそこまで密着するとは!
「和也……」
雪菜が涙目で彼を見上げる。
「やっぱり船酔いがひどくて……ねえ、もう帰りましょう?」
