第1章
鞭が女の柔らかな肌を裂き、焼けつくような痛みが全身へと広がっていく。
星川千奈は冷たいタイルにうつ伏せになり、下唇を噛みしめることで、かろうじて意識を繋いでいた。
「鳴瀬颯真、どうして私のこと、信じてくれないの……?」
痛みで体が震えているのに、彼女は意地でも顔を上げ、ソファに座る男を見据えた。
星川千奈の惨めさとは対照的に、鳴瀬颯真は仕立てのいいスーツ姿で本革のソファに深く腰掛け、脚を組んでいる。気品と冷淡さが同居した、近寄りがたい佇まい。
彫りの深い整った顔立ち。切れ長の目尻が、彼に触れがたい禁欲の気配を添えている。美しい――けれど、圧がある。
彼は見下ろすように千奈を見て、嫌悪を滲ませた声で言った。
「俺がこの目で見た。まだ言い逃れする気か?」
星川千奈の背筋が震える。
「小林琴音が自分で落ちたの……!」
言い終える前に、顎に激痛が走った。
無理やり顔を持ち上げられ、鳴瀬颯真の沈みきった瞳に囚われる。
「星川千奈。琴音が体が弱いことくらい、お前も分かってたはずだ。それでもあんな高い段から突き落とした。どうしてそこまで残酷になれる?」
顎を掴む指がじりじりと締まり、骨が砕けそうなほどの力に千奈は息を詰めた。
見つめ返す。自分は彼の妻なのに――彼は一度たりとも、信じてはくれなかった。
「本当に、やってない……」千奈は必死に首を振る。「止めようとしたの。掴もうとして――」
「まだ言い訳か」
鳴瀬颯真は乱暴に顎を放り、傍に控える護衛へ冷たく命じた。
「続けろ。吐くまで叩け」
千奈は震える手で彼のズボンの裾を掴んだ。
「鳴瀬颯真……私はあなたの妻よ。こんなこと、しないで……」
言い切る前に、強い衝撃が来た。蹴り飛ばされ、体が床を滑る。
鳴瀬颯真は背を向けたまま、冷たい背中だけを残し、短く吐き捨てた。
「叩け」
鞭が再び千奈の体に落ちる。鋭い痛みに体が丸まり、残っていた僅かな希望が、ぷつりと切れた。
千奈は床に手をつき、力の限り叫ぶ。
「鳴瀬颯真! 信じないなら――離婚よ!」
鳴瀬颯真の歩みが止まった。
振り返り、傷だらけで伏す女を見て、冷笑する。
「離婚? 必死に手に入れた鳴瀬奥さんの座だろ。捨てられるのか? 言っておくが、離婚で脅すのは無駄だ」
その言葉は、鞭傷よりも痛かった。
千奈は悟る。鳴瀬颯真は最初から最後まで、自分を卑劣な女だと決めつけているのだ、と。
――五年前。
画展で、鳴瀬おばあさんが口から汚物を吐いて倒れた。千奈は周囲の視線も躊躇も振り切り、人工呼吸で命を救った。それがきっかけで、彼女は鳴瀬おばあさんの義理の孫娘となった。
迎えるパーティーでは、誰かが嘲った。「わざと仕組んで助けたんだろ。鳴瀬家に取り入るために」
真っ赤になって言葉を失う千奈を庇い、噂を撒く連中を追い払ったのが鳴瀬颯真だった。
その瞬間、心が乱れた。
彼が守ったのは鳴瀬家の体面に過ぎない。分かっていた。それでも、暗い生活の中で、あれは数少ない光だった。
千奈は身の程を知り、その想いを胸に隠した。兄妹としての分を守り、敬って距離を置いた。
転機は三年前、鳴瀬おばあさんの寿宴だった。
千奈と鳴瀬颯真は薬を盛られ、同じベッドで眠ってしまう。その醜聞は一夜でJ市に広まった。
鳴瀬おばあさんは彼に千奈との結婚を強いた。それで騒ぎは収まったが――鳴瀬颯真の恋人、小林琴音は、事情を知ると一言も残さず国外へ去った。
鳴瀬颯真は全てを千奈のせいにした。鳴瀬家に現れたことも、彼のベッドに上がったことも、彼の愛を壊したことも。
それ以来、彼は「お兄ちゃん」と呼ぶことさえ許さない。向ける視線には嫌悪しかなかった。
けれど千奈だけは知っている。
彼女に、薬を盛るような大胆な発想など欠片もなかった。三年前のあの夜、目覚めたとき彼女は彼の下にいて、全身が軋むように痛み、頭は真っ白で――何が起きたのか、何一つ分からなかった。
この三年、J市中が彼女を笑った。卑しい女だ、名門に嫁ぐために手段を選ばない女だと。
鳴瀬家の人間も、鳴瀬おばあさんを除けば誰ひとり彼女を認めない。向けられるのは侮蔑と嫌悪ばかり。
千奈は性格を殺した。悔しくても飲み込んだ。心の奥に、まだ小さな願いが残っていたから。
一年前。鳴瀬颯真が酔った夜、二人は結婚後初めて身体を重ねた。
そこから鳴瀬颯真の態度は少しだけ柔らぎ、ベッドの上の相性も、皮肉なほどに噛み合っていった。
――頑張れば、届くのかもしれない。いつか、彼にも真心が伝わるかもしれない。
そう思っていた。
だが、今日の一鞭、また一鞭が、千奈を叩き起こした。
最初から最後まで、全部――自分の一方通行だったのだと。
もう笑える幻想を抱いて、卑しくしがみついていたくない。愛も信頼もない結婚に縛られたくない。
彼を自由にし、自分も解放する。痛みだけの婚姻を終わらせる。
千奈が黙っているのを、鳴瀬颯真は図星を刺されたのだとでも思ったのか、さらに顔を曇らせ、冷たく言い捨てた。
「今日は小さな罰だ。まだ懲りないなら、俺を怒らせた報いを教えてやる」
そう言い残し、彼は大股で去っていった。背中は容赦なく、決別の色を帯びていた。
千奈は呆然と、その姿が消えた先を見つめる。堪えていた涙が、ようやく頬を伝った。
昨夜は――同じこの屋敷で、布団の中で絡み合っていたのに。
――一日前、深夜。
豪邸の主寝室。床まで届く窓が開き、風が吹き込む。けれど、部屋に残る濃い情事の匂いは散らない。
広いベッドの上で、鳴瀬颯真の力は凄まじかった。千奈を自分の体の中にねじ込むように。
「ん……っ、少し……優しく……」
侵入に耐えながら、千奈はシーツを掴んで指を白くした。
懇願しても、男の動きは緩まない。それどころか、攻めはさらに苛烈になる。
千奈は受け身のまま、霞む視界で彼の美しい顔を見上げた。
彼の瞳には火が灯っている。彼女の身体への執着の火だ。
けれど二人の間に、キスはない。抱擁もない。あるのは原始的な欲望と占有だけ。まるで千奈が、欲を吐き出す道具でしかないかのように。
「集中しろ」
鳴瀬颯真は彼女の意識の飛びを察し、大きな手で腰を掴み、罰するように強く動いた。
「っ……!」
千奈は声を噛み殺し、目尻に生理的な涙が滲む。
長い時間ののち、すべてが鎮まった。
鳴瀬颯真は彼女から離れ、そのまま浴室へ向かう。
ざああ、と水の音。
千奈は酸っぱく痺れる体を引きずり、なんとかベッドヘッドにもたれた。
やがて浴室の扉が開く。
鳴瀬颯真は腰にタオルを巻いただけで、濡れた髪から水滴が落ちる。広い肩から首筋を滑り、引き締まった胸と腹を伝って、深い人魚線へ消えた。
千奈は目を奪われる。何年見ても、この男の容姿は容易く心を揺らした。
鳴瀬颯真は髪を拭きながら顔を上げ、千奈の濡れた瞳と視線がぶつかった。
そこにあるのは、隠しようもない恋慕だった。
