紹介
絨毯を赤く染めていく鮮血。けれどそんな痛みすら、ズタズタに引き裂かれた心の苦しみに比べれば、何でもなかった。
「この目で見たんだ。まだ言い訳するつもりか?」
3年間連れ添った夫・鳴瀬颯真は、底冷えするような軽蔑の眼差しで私を見下ろしていた。
彼の愛してやまない初恋の女・小林琴音が仕掛けた「階段から落ちた自作自演」を盲信し、彼は躊躇なく私を傷つけた。
この3年間、私はプライドを捨てて彼に尽くし、彼の家族からの執拗な嘲笑にも耐えてきた。いつか、彼の凍りついた心を溶かせると信じて。けれど彼にとって私は、姑息な罠で彼のベッドに這い上がった狡猾な女に過ぎなかったのだ。
ゴミのように扱われる私をよそに、彼女の涙を優しく拭う彼の姿を見た瞬間、私の愚かな期待は完全に終わりを迎えた。
「――離婚しましょう」
私はサイン済みの離婚届を、彼の足元へ投げつけた。
彼は鼻で笑った。どうせ気を引くためのハッタリで、自分に従順な「身代わりの人形」のまま、すぐに泣きついてくると思い込んでいるのだ。
だが、彼は致命的な勘違いをしている。
私はもう、二度と振り返らない。自分の手で、私だけのビジネスを築くために。
――やがて彼がすべての真実に気づき、絶望に身をよじるその時、手を差し伸べてあげる私はもう、世界のどこにもいない。
チャプター 1
鞭が女の柔らかな肌を裂き、焼けつくような痛みが全身へと広がっていく。
星川千奈は冷たいタイルにうつ伏せになり、下唇を噛みしめることで、かろうじて意識を繋いでいた。
「鳴瀬颯真、どうして私のこと、信じてくれないの……?」
痛みで体が震えているのに、彼女は意地でも顔を上げ、ソファに座る男を見据えた。
星川千奈の惨めさとは対照的に、鳴瀬颯真は仕立てのいいスーツ姿で本革のソファに深く腰掛け、脚を組んでいる。気品と冷淡さが同居した、近寄りがたい佇まい。
彫りの深い整った顔立ち。切れ長の目尻が、彼に触れがたい禁欲の気配を添えている。美しい――けれど、圧がある。
彼は見下ろすように千奈を見て、嫌悪を滲ませた声で言った。
「俺がこの目で見た。まだ言い逃れする気か?」
星川千奈の背筋が震える。
「小林琴音が自分で落ちたの……!」
言い終える前に、顎に激痛が走った。
無理やり顔を持ち上げられ、鳴瀬颯真の沈みきった瞳に囚われる。
「星川千奈。琴音が体が弱いことくらい、お前も分かってたはずだ。それでもあんな高い段から突き落とした。どうしてそこまで残酷になれる?」
顎を掴む指がじりじりと締まり、骨が砕けそうなほどの力に千奈は息を詰めた。
見つめ返す。自分は彼の妻なのに――彼は一度たりとも、信じてはくれなかった。
「本当に、やってない……」千奈は必死に首を振る。「止めようとしたの。掴もうとして――」
「まだ言い訳か」
鳴瀬颯真は乱暴に顎を放り、傍に控える護衛へ冷たく命じた。
「続けろ。吐くまで叩け」
千奈は震える手で彼のズボンの裾を掴んだ。
「鳴瀬颯真……私はあなたの妻よ。こんなこと、しないで……」
言い切る前に、強い衝撃が来た。蹴り飛ばされ、体が床を滑る。
鳴瀬颯真は背を向けたまま、冷たい背中だけを残し、短く吐き捨てた。
「叩け」
鞭が再び千奈の体に落ちる。鋭い痛みに体が丸まり、残っていた僅かな希望が、ぷつりと切れた。
千奈は床に手をつき、力の限り叫ぶ。
「鳴瀬颯真! 信じないなら――離婚よ!」
鳴瀬颯真の歩みが止まった。
振り返り、傷だらけで伏す女を見て、冷笑する。
「離婚? 必死に手に入れた鳴瀬奥さんの座だろ。捨てられるのか? 言っておくが、離婚で脅すのは無駄だ」
その言葉は、鞭傷よりも痛かった。
千奈は悟る。鳴瀬颯真は最初から最後まで、自分を卑劣な女だと決めつけているのだ、と。
――五年前。
画展で、鳴瀬おばあさんが口から汚物を吐いて倒れた。千奈は周囲の視線も躊躇も振り切り、人工呼吸で命を救った。それがきっかけで、彼女は鳴瀬おばあさんの義理の孫娘となった。
迎えるパーティーでは、誰かが嘲った。「わざと仕組んで助けたんだろ。鳴瀬家に取り入るために」
真っ赤になって言葉を失う千奈を庇い、噂を撒く連中を追い払ったのが鳴瀬颯真だった。
その瞬間、心が乱れた。
彼が守ったのは鳴瀬家の体面に過ぎない。分かっていた。それでも、暗い生活の中で、あれは数少ない光だった。
千奈は身の程を知り、その想いを胸に隠した。兄妹としての分を守り、敬って距離を置いた。
転機は三年前、鳴瀬おばあさんの寿宴だった。
千奈と鳴瀬颯真は薬を盛られ、同じベッドで眠ってしまう。その醜聞は一夜でJ市に広まった。
鳴瀬おばあさんは彼に千奈との結婚を強いた。それで騒ぎは収まったが――鳴瀬颯真の恋人、小林琴音は、事情を知ると一言も残さず国外へ去った。
鳴瀬颯真は全てを千奈のせいにした。鳴瀬家に現れたことも、彼のベッドに上がったことも、彼の愛を壊したことも。
それ以来、彼は「お兄ちゃん」と呼ぶことさえ許さない。向ける視線には嫌悪しかなかった。
けれど千奈だけは知っている。
彼女に、薬を盛るような大胆な発想など欠片もなかった。三年前のあの夜、目覚めたとき彼女は彼の下にいて、全身が軋むように痛み、頭は真っ白で――何が起きたのか、何一つ分からなかった。
この三年、J市中が彼女を笑った。卑しい女だ、名門に嫁ぐために手段を選ばない女だと。
鳴瀬家の人間も、鳴瀬おばあさんを除けば誰ひとり彼女を認めない。向けられるのは侮蔑と嫌悪ばかり。
千奈は性格を殺した。悔しくても飲み込んだ。心の奥に、まだ小さな願いが残っていたから。
一年前。鳴瀬颯真が酔った夜、二人は結婚後初めて身体を重ねた。
そこから鳴瀬颯真の態度は少しだけ柔らぎ、ベッドの上の相性も、皮肉なほどに噛み合っていった。
――頑張れば、届くのかもしれない。いつか、彼にも真心が伝わるかもしれない。
そう思っていた。
だが、今日の一鞭、また一鞭が、千奈を叩き起こした。
最初から最後まで、全部――自分の一方通行だったのだと。
もう笑える幻想を抱いて、卑しくしがみついていたくない。愛も信頼もない結婚に縛られたくない。
彼を自由にし、自分も解放する。痛みだけの婚姻を終わらせる。
千奈が黙っているのを、鳴瀬颯真は図星を刺されたのだとでも思ったのか、さらに顔を曇らせ、冷たく言い捨てた。
「今日は小さな罰だ。まだ懲りないなら、俺を怒らせた報いを教えてやる」
そう言い残し、彼は大股で去っていった。背中は容赦なく、決別の色を帯びていた。
千奈は呆然と、その姿が消えた先を見つめる。堪えていた涙が、ようやく頬を伝った。
昨夜は――同じこの屋敷で、布団の中で絡み合っていたのに。
――一日前、深夜。
豪邸の主寝室。床まで届く窓が開き、風が吹き込む。けれど、部屋に残る濃い情事の匂いは散らない。
広いベッドの上で、鳴瀬颯真の力は凄まじかった。千奈を自分の体の中にねじ込むように。
「ん……っ、少し……優しく……」
侵入に耐えながら、千奈はシーツを掴んで指を白くした。
懇願しても、男の動きは緩まない。それどころか、攻めはさらに苛烈になる。
千奈は受け身のまま、霞む視界で彼の美しい顔を見上げた。
彼の瞳には火が灯っている。彼女の身体への執着の火だ。
けれど二人の間に、キスはない。抱擁もない。あるのは原始的な欲望と占有だけ。まるで千奈が、欲を吐き出す道具でしかないかのように。
「集中しろ」
鳴瀬颯真は彼女の意識の飛びを察し、大きな手で腰を掴み、罰するように強く動いた。
「っ……!」
千奈は声を噛み殺し、目尻に生理的な涙が滲む。
長い時間ののち、すべてが鎮まった。
鳴瀬颯真は彼女から離れ、そのまま浴室へ向かう。
ざああ、と水の音。
千奈は酸っぱく痺れる体を引きずり、なんとかベッドヘッドにもたれた。
やがて浴室の扉が開く。
鳴瀬颯真は腰にタオルを巻いただけで、濡れた髪から水滴が落ちる。広い肩から首筋を滑り、引き締まった胸と腹を伝って、深い人魚線へ消えた。
千奈は目を奪われる。何年見ても、この男の容姿は容易く心を揺らした。
鳴瀬颯真は髪を拭きながら顔を上げ、千奈の濡れた瞳と視線がぶつかった。
そこにあるのは、隠しようもない恋慕だった。
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――6年後。
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しかし、悪辣な嘘に目を曇らされた知暁は、私を激しく憎み、「仇敵」として冷酷に立ちはだかる。
やがてすべての真実が白日の下に晒された時、彼は己の過ちに絶望し、プライドを捨てて泣きながら私に許しを乞うた。
だが、傷つけられた私の心はもう戻らない。私は彼の懇願を、冷徹に突き放した。
――もう遅いわ。あなたを一生、許すつもりはない。
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だが、彼らは致命的な勘違いをしていたのだ。
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