第12章
「別に、何もしないわ」
星川千奈は食べ残していたケーキを持ち上げ、ふっと笑った。
「ただ言いに来ただけ。私が離婚届にサインしない限り、私は一日だって、あんたの義姉さんなんだから」
「それと――」
彼女はわずかに身を乗り出し、鳴瀬芽衣の耳元へ唇を寄せる。
「次に私の前で、調子に乗って呼び方を間違えたら……容赦しない」
「容赦しない?」
鳴瀬芽衣は一瞬きょとんとして、次の瞬間には腹を抱えて笑い出した。
「星川千奈、誰を脅してんの? どうしたの、琴音姉さんが帰ってきたから発狂した?」
小林琴音の名を出された途端、星川千奈は黙り込んだ。
「ほら、黙った。図星? 痛いとこ突かれた?」
鳴瀬芽衣はますます笑い声を大きくする。
「死んだあんたの母親が今のあんた見たら、怒りで――もう一回死ぬわ……」
言い終えるより先に、手首ががっちり掴まれた。
凄まじい力で引き寄せられ、鳴瀬芽衣は星川千奈に引きずり込まれる。ベルベットのカーテンの奥へ。
宴会場の死角。照明は薄暗く、誰の視線も届きにくい場所。
「きゃっ! なにするの! 離して――」
叫びかけた声が、喉の奥で凍りついた。
鋭い針先が、眼球まで1cmもない距離で止まっている。星川千奈の胸元のブローチ。
「叫べば?」
星川千奈の声は低い。けれど、背筋が粟立つほど冷たかった。
壁に押しつけられた鳴瀬芽衣の逃げ道を塞ぐように、針先がゆっくりと下がっていく。頬へ、ぴたり。
氷みたいな感触に、鳴瀬芽衣は全身を強張らせ、息すらできない。
「……あ、あんた……狂ってる……! 私に傷つけたら、颯真兄さんが黙ってない……!」
声は震え、身体も震える。
「鳴瀬颯真?」
星川千奈は鼻で笑った。
「私が狂ってるって言うなら、まだ私があいつを怖がるとでも思う?」
手首に力が入る。針先が皮膚を破り、ぷつりと血の粒が滲んだ。
「鳴瀬芽衣。私は星川家の捨てられた娘で、鳴瀬颯真に嫌われてる妻。何も持ってない」
「でも、あんたみたいなお嬢様は――顔に傷がついたら? 目が潰れたら? 残りの人生、どうやって生きるの?」
「や……やめ……」
鳴瀬芽衣の目から涙が溢れ、頬を伝った。
「義姉さん……ごめんなさい……! 私が悪かった……もう言わない……お願い、やめて……!」
「さっきまで楽しそうに罵ってたくせに。続ければ?」
星川千奈は冷たく言い放つ。
「言わない! 言わないから!」
鳴瀬芽衣は泣きながら首を振り、アイメイクはぐしゃぐしゃだ。
「放して……ほんとに、もうしない……!」
本気で怯えている。その顔は、今にも崩れ落ちそうだった。
その様子を見た瞬間、星川千奈の目に宿っていた凶気がすっと引く。残ったのは、疲労だけ。
彼女は手を放し、汚いものでも見るように一歩退いた。
「消えろ」
鳴瀬芽衣は膝が抜け、転びかけながらも必死に身を翻す。転がるように駆け出し、振り返りもしない。
星川千奈は壁に背を預けた。
手の中のブローチが、からん、と床に落ちる。全身の力が一瞬で抜けていく。
張りつめていた硬い殻が砕け、彼女はずるずると床へ滑り落ちた。膝を抱え、顔を埋める。
――狂ってるふりをする方が、黙って耐える奥様でいるより、ずっと痛快。
なのに、どうしてまだ苦しいんだろう。
「相変わらず、意地っ張りだな」
頭上から、穏やかな声が落ちてきた。
星川千奈はびくりと肩を震わせ、慌てて顔を上げる。目尻の涙を乱暴に拭った。
数歩先に、鳴瀬庄司が立っていた。
「兄……」
星川千奈は気まずそうに笑う。
「みっともないところ、見せちゃった」
「よくやった」
鳴瀬庄司は眼鏡を指で押し上げる。
「あの子は家で甘やかされすぎだ。誰かが一度、叱る必要がある」
星川千奈は目を瞬いた。鳴瀬庄司がそう言うとは思わなかった。
「私、やっぱり……狂って見えますよね」
自嘲気味に、口元だけで笑う。
「俺の知ってる星川千奈は、狂った人間じゃない」
鳴瀬庄司は二歩近づき、しゃがみ込んだ。視線の高さを、彼女に合わせる。
「俺の知ってる星川千奈は、子猫を守るために、雨の中で三十分も立っていた後輩だ」
胸がきゅっと縮んで、星川千奈の目が一気に赤くなる。
ずっと昔の話。彼女が美大に通っていた頃。鳴瀬庄司は隣の大学の先輩だった。
学校は近く、専攻は違っても、サークルの合同活動で何度か顔を合わせた。
あの頃は星川家もまだ傾いていなくて、星川千奈の目にも光があった。
鳴瀬のおばあさんが画展へ行きたがったときも、鳴瀬庄司が彼女の学校を薦めた。それが、あの一連の始まりだった。
「先輩……」
星川千奈は嗚咽を噛み殺す。
「ほら、立て。床は冷える」
鳴瀬庄司が手を差し出し、彼女を引き上げた。
立たせると、すぐに手を離し、きちんと距離を取る。
「涙を拭け。化粧が崩れたら、綺麗じゃなくなる」
鳴瀬庄司は優しく言った。
星川千奈は鼻をすすり、感謝のままに頷いた。
けれど――彼女は知らない。
宴会場のシャンデリアの下、鳴瀬颯真が人垣の向こうに立ち、この方角を刺すように睨みつけていたことを。
彼は本来、彼女を探しに来たのだ。
さっきまで小林琴音に絡まれ、画廊のオーナーを何人か紹介しろと言われていた。なのに妙に苛立って、頭に浮かぶのは星川千奈ばかり。
気づけば琴音のそばを離れ、会場中を探し回っていた。
――そして、見つけた光景がこれだ。
さっきまで自分に冷たい言葉を投げ、手を握らせようともしなかった女が。
今は兄の前で、泣きそうな顔をして。縋るみたいに彼を見上げている。
鳴瀬颯真は冷笑し、手の中のワイングラスを強く握った。
きしり、と嫌な音がしそうなほどに。
