第13章

苛立ちが胸の奥からせり上がる。鳴瀬颯真は鼻で笑い、踵を返すと大股でその場を去った。

隅で様子を窺っていた星川千奈はひとつ深呼吸し、顔をあらためて端正に整える。

二人は前後して影の濃い一角を抜け、再び燦々と照明の落ちる宴会場の中心へ戻った。

人だかりの真ん中では、小林琴音が名家の令嬢たちに囲まれていた。

誰かが勇気を出したように茶化す。

「小林さん、颯真様とご一緒にいらしたんですよね。もしかして、いよいよゴールインですか?」

「そうそう。お二人って、昔からこのJ市じゃ“お似合いの二人”って有名でしたし。どっちも帰国したなら、いい話が近いんじゃないですか?」

小林琴音はシャンパンのグラスを指先で揺らしながら、群衆越しに、ちょうど戻ってきた星川千奈へ視線を滑らせた。唇の端がわずかに持ち上がる。

「皆さん、あんまり冗談言わないで。颯真は……だって、もう結婚してるんですもの」

周囲から「ええ……」と含みのある声が漏れる。

小林琴音はすぐに口調を変え、星川千奈を見据えるように付け足した。

「でもね……颯真が言ってたの。間違いって、いつかは正さなきゃいけないものだって」

星川千奈の足が、わずかに止まる。爪が掌に食い込んだ。

小林琴音の口では、自分の三年の婚姻が“修正されるべき誤り”になるのだ。

そのとき、鳴瀬颯真の長身が人の波を割って近づいてきた。外で一本吸ってきたのだろう、煙草の匂いがさっきより濃い。まとった空気も、冷え切っている。

彼の視線が、星川千奈の赤くなった目尻を掠めた瞬間、目元がさらに暗く沈んだ。

「颯真」

鳴瀬庄司がさりげなく半歩前へ出て、颯真の視線を遮る。

「遅かったな。さっき千奈とちょうど会ってね。少し具合が悪そうだったから、二言三言話していた」

「具合が悪い?」

鳴瀬颯真がその言葉をなぞる。嘲りを含んだ声音だった。

「俺には元気そうに見えたが。さっきも芽衣を説教する元気があったし、兄貴と昔話する余裕もある」

星川千奈の心臓がひゅっと縮む。やっぱり、知っていた。

鳴瀬芽衣は彼の従妹だ。告げ口するのは当然だろう。

「颯真」

鳴瀬庄司がわずかに眉を寄せた。

「芽衣は口が過ぎる。確かに躾けが足りない」

庄司が星川千奈を庇うように言ったことで、鳴瀬颯真の顔色はいっそう険しくなる。

両手をスラックスのポケットに突っ込んだまま、星川千奈を見た。

「どうした? 悔しいことがあると兄貴に泣きつくくせに、自分の夫を前にしたら黙りか」

星川千奈は視線を落とす。

「違うわ。兄は通りがかっただけ」

その淡々とした態度が、かえって鳴瀬颯真の苛立ちを煽った。

庄司の前では頼って、信じる顔をするのに。自分の前では、まるで息のない人形だ。

「具合が悪いなら帰るぞ」

鳴瀬颯真が冷たく言う。

鳴瀬庄司は外の闇を一瞥し、穏やかに提案した。

「もう遅い。ここは市街からも遠いし、今夜は泊まっていけ。部屋はもう整えさせた」

「泊まらない」

鳴瀬颯真は考える間もなく切り捨て、薄く笑って星川千奈を見た。

「お前は? 鳴瀬奥さん」

星川千奈は平然と、その言葉に乗る。

「あなたに従う。帰りましょう」

その答えに、鳴瀬颯真の目に宿っていた刺々しさがわずかに緩む。すぐに踵を返し、玄関のほうへ向かった。

「じゃあ行く。車を回す」

背中がポーチの暗がりへ消えたのを見届けて、鳴瀬庄司が星川千奈に言う。

「送るよ」

二人は並んで邸の門へ向かう。夜風が冷たく、露わになった肩を撫でて、星川千奈の肌に粟が立った。

鳴瀬庄司が自分のジャケットを脱ぎ、肩に掛けようとする。だが星川千奈は小さく身を引いて避けた。

「兄、いいの。颯真が見たら、また怒るから……」

「そこまで怖いのか」

鳴瀬庄司は苦笑してジャケットを戻した。

「あいつ、最近ますます厄介な性格になった」

階段の手前で、鳴瀬庄司は足を止める。

「千奈。颯真は元々冷たい。ここ数年……あいつのそばで、つらかっただろう」

「つらいとか、そういうのじゃないわ。選んだのは私」

星川千奈は唇を引き結び、かすかに笑った。

「お互い様よ。必要があっただけ」

「お前は……」

鳴瀬庄司がため息を落とす。

「何かあったら、兄に言え。商売の力にはなれないが、鳴瀬家の中で口を挟むくらいはできる」

「ありがとう、兄」

星川千奈は小さく頷いた。

庄司はもう一度、名残惜しそうに彼女を見た。背後から呼ばれて、ようやく身を翻し、宴会場へ戻っていく。

星川千奈は遠ざかる背中を見送りながら、胸の奥に灯りかけた温もりが、夜風に吹かれて一瞬で散っていくのを感じた。

鳴瀬庄司は善い人だ。けれど、この名門の婚姻の檻の中で、善意だけでは救われない。

「感動的ね」

横から女の声が刺さる。

振り返らなくても分かる。

小林琴音は蔑みを隠しもせず、嘲るように言った。

「星川千奈、ほんと器用。颯真を手放さないくせに、庄司さんには優しくされて。鳴瀬家の男ふたりが、あなたの周りをくるくる回らないと気が済まないの?」

星川千奈は表情を変えない。

「小林さん。兄は礼儀でそうしただけ。どこかの誰かみたいに、相手に家庭があると分かってて、平気で張り付いたりしない」

「颯真が、あなたを“家庭”だって認めてると思う?」

小林琴音が冷笑する。

「目を覚ましなさい。颯真が愛してるのは私よ。あなたはただの飾り!」

「飾り?」

星川千奈がふっと笑った。

「私が離婚しない限り、私は永遠に鳴瀬奥さん。あなた、小林琴音は……人目につかない——」

星川千奈は一歩近づき、言葉を噛み締めるように告げた。

「不倫相手」

その単語は、明らかに小林琴音の急所だった。

才女。鳴瀬颯真の初恋。高嶺の存在だったはずの自分が、落ちぶれた家の女のせいで“不倫相手”と呼ばれる。

小林琴音は全身を震わせ、目が憎悪で濁る。

そのとき、鳴瀬颯真の車が、ちょうど屋敷の階段下の車寄せへ滑り込んできた。ヘッドライトが夜を切り裂く。

小林琴音はその光を捉え、瞳の奥に冷たい刃を走らせる。

次の瞬間、歪んだ表情を引っ込め、怯え切った顔に塗り替えた。甲高い悲鳴が夜気を裂く。

「ああ——! 千奈、押さないで!」

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