第2章
鳴瀬颯真はタオルを持つ手を、ふっと止めた。
さっきベッドの上でも、彼女はその濡れた瞳で彼を見上げ、何度も名を呼んだ。
眉を寄せ、ベッド脇へ歩み寄って見下ろす。
「……どうした。さっき、傷つけたか?」
気遣いのはずの言葉なのに、声はどこまでも冷めている。
星川千奈には分かっていた。そもそも、この結婚に恋の土台なんてない。三年のあいだ、彼は外面だけは十分に保ってくれていた。
それでも、胸の奥がどうしても納得しない。
千奈の瞳の光が、少しずつ翳っていく。口元を引きつらせて笑った。
「……ううん。大丈夫。心配しないで」
「ならいい」
鳴瀬颯真は踵を返す。
「薬は棚にある。具合が悪いなら自分で塗れ」
「颯真……」
どこから湧いた勇気か。千奈は背中から彼の腰に抱きついた。
冷たい背中に頬を押し当てる。ほんのわずかな体温を、奪い取るみたいに。
颯真の身体がこわばり、彼女の腕を外そうとする。
「離せ。書斎で仕事する」
「行かないで……少しだけ」
縋るような声だった。
「今月ずっと出張だったでしょう。会いたくて……。出張、少し減らせない? 家にいてほしいの」
颯真の動きが止まり、鼻で笑う。
「鳴瀬グループが星川家を養ってやってる。俺が働かなきゃ、誰があんたらの底なしの穴を埋める?」
千奈の頬が熱くなる。唇を噛み、それでも腕を緩めない。
「じゃあ……子ども、作らない? おばあさまもひ孫を望んでるし、私も……」
「星川千奈」
颯真の声が、鋭く冷えた。
容赦なく指を一本ずつ剥がし、振り向く。氷のような眼差し。
「身の程を覚えろ。忘れたなら、思い出させてやる。お前がどうやって俺のベッドに上がったかをな」
千奈の顔色が、一気に抜けた。
颯真は冷たく言い放つ。
「俺が頷くまで、子どもで縛るなんて夢を見るな。鳴瀬の子が、手段を使う女の腹から生まれるわけがない」
言い終えると、彼は彼女を見もしない。脇に置いたシャツを掴んで羽織り、
「お前は寝ろ。俺は書斎で寝る」
「颯真……!」
バタン、と扉が閉まる。呼び声は無情に遮られた。
千奈は伸ばした手のまま固まり、閉ざされた扉を見つめる。堪えていたものが決壊し、涙がぽろりと頬を伝った。
翌朝。眩しい日差し。
目覚めたとき、隣はすでに冷たかった。まるで昨夜、彼という存在が最初からいなかったかのように。
ドンドン。
「若奥様、起きていらっしゃいますか?」
家政婦の石川が入ってきた。手にはぬるめの水と、白い錠剤が一粒。
その錠剤を見た瞬間、千奈の瞳孔が縮む。
「若様のご命令で……その、きちんと飲むのを見届けろって」
石川は水と薬を差し出す。目に同情もあるが、それ以上に侮蔑が滲んでいた。
千奈は薬を受け取り、苦い錠剤を水で流し込む。
――やっぱり。鳴瀬颯真は、彼女が子どもを孕むのを本気で怖れている。
「颯真は?」
千奈の声は掠れていた。
「夜明け前に会社へ。プロジェクトがどうとかで」
石川は乱れたシーツを整えながら、ため息混じりに言う。
「夫婦ってのはね、やっぱり両想いが一番ですよ。若奥様、余計なお世話かもしれませんけど……見てくださいよ、もう何年も経つのに、こんな冷え切って……」
シーツをばさりと振り、
「名門の奥さまの椅子なんて、座れたとしても安泰じゃない。昔の若様と小林さん、あれこそお似合いだったのにねえ……」
千奈の指が、水のグラスを強く握った。
「石川さん。少し休みたいの」
「はいはい、分かりましたよ」
石川は口を尖らせ、扉口で振り返る。
「そうだ、奥様から電話があってね。今夜は家族の晩餐会だって。ちゃんとした格好で来い、若様の顔に泥を塗るなってさ」
扉が閉まる。
千奈は力が抜け、ベッドに座り込んだ。
枕元のスマホが震える。深呼吸してから通話に出た。
「結亜」
「千奈、ネットのニュース見た!?」
千鳥結亜の声は今にも噴火しそうだった。
「ニュースって……?」
「鳴瀬颯真のあのクズ男! フランスは出張だって言ってたよね?」
千奈の胸が、ひやりと沈む。
「……そうだけど」
「出張なわけあるか! 今送った写真見て!」
震える手でLIMEを開く。数枚の写真。背景はロマンチックなパリの街並み。
写真の中で、昨夜まで彼女に冷たかった男が、女の乱れた髪を指先で整えている。彼女が一度も見たことのない、優しい表情で。
女は柔らかく笑っていた。鳴瀬颯真の初恋――小林琴音。
「……この一か月、ずっと一緒だったの?」
息が詰まり、呼吸が苦しい。
電話の向こうで結亜が罵った。
「小林琴音がフランスで個展やってて、鳴瀬颯真がわざわざ飛んで一か月も付き添ったの! 千奈、あいつ、あなたの前じゃ高嶺の花気取ってるくせに、振り向けば初恋とラブラブ。あなたを何だと思ってるのよ!」
千奈は写真の似合いすぎる二人を見つめ、胸が痛みで潰れそうだった。
「結亜……分かってる。私の若奥様って立場、最初から綺麗じゃなかった」
「何言ってんの!?」
結亜の声が跳ね上がる。
「あなたは画展でおばあさまを救ったの! この三年、奥さんどころか家政婦みたいにあいつの世話してきたの! 算計されたのだってあなたのせいじゃない! 星川千奈、いい加減しっかりしなさいよ!」
千奈は口元を動かすが、笑えなかった。
正午の陽光が、千奈の作業台に差し込む。
空気には鉛筆の粉と紙の匂いが漂う。ここだけが、彼女を落ち着かせる。
「蘭亭」ブランドの創始者である千奈のデザインは、いつも冷ややかで自制の効いた線が特徴だ。だが今日は、線がどこか乱れていた。
屑籠には丸められたスケッチが山のように溜まっている。
どれだけ描き直しても、最後にはあの男の冷たい横顔になり、あるいは写真の二人の眩しい笑みになってしまう。
「……はぁ」
千奈は鉛筆を置き、眉間を揉んだ。
胃がきりきりと痛む。昨夜から今まで、あの苦い事後薬以外、ほとんど何も口にしていない。
階下へ降りようとしたとき、玄関で石川が食盒を提げ、慌ただしく出て行くところだった。
「石川さん」
千奈が呼び止める。
石川は足を止め、階段上の千奈を雑に見上げた。
「若奥様、何かご用です? 私、急いでるんですけど」
千奈の視線が食盒に落ちる。
「颯真にお昼を届けに行くの?」
「そうですよ」
石川は襟元を整え、得意げに言った。
「若様は胃が弱いし、口も肥えてる。外のものは合わないんですって」
千奈は知っている。鳴瀬颯真の胃が弱いことを。
結婚したばかりの頃、彼女は良い妻になりたかった。少しずつでも心を動かしたかった。
料理教室に通い、腕を磨いた。保温桶を抱えて鳴瀬グループへ行った。
けれど社長室の前で、颯真に止められた。
彼は保温桶を見ることすらせず、廊下の社員と秘書の前で、手を上げてそれを床に叩き落とした。
熱い料理が床いっぱいにぶちまけられる。四時間かけて作ったものが、一瞬で。
