第3章
「誰が会社に来ていいと言った?」
男の瞳には露骨な嫌悪があった。
「星川千奈。男に媚びる真似を、俺に向けるな。今後、俺の会社には近づくな。俺は料理人も要らないし、薄っぺらい気遣いも要らない。お前の作るものは、見るだけで吐き気がする」
それ以来、J市じゅうが知ることになった。鳴瀬家の若奥様は、鳴瀬グループにとって歓迎されない来訪者だ、と。
「若奥様? 若奥様?」
石川さんの苛立った声に、千奈の意識が現実へ引き戻される。
星川千奈ははっとして、なぜか口を開いていた。
「石川さん。通行証をちょうだい。今日は私が、颯真にお弁当を届ける」
「……は?」
石川さんは目を丸くし、眉をひそめた。
「若奥様、何をおっしゃって……若様が、余計な――」
「私は鳴瀬颯真の妻よ。余計な人間じゃない」
星川千奈の声には、いつもの柔らかさがなかった。冷たく、硬い。
一段ずつ階段を降り、澄んだ視線で石川さんをまっすぐ射抜く。
「それともこの家で、私は使用人ひとりに命じる権利すらないの?」
石川さんが、わずかに言葉を詰まらせる。
普段の星川千奈は、若奥様と呼ばれてはいても、鳴瀬家では感情の起伏のない人形みたいだった。今日はいったい、どうしたというのか。
――おばあさんの、千奈への露骨な肩入れ。
それが頭をよぎり、石川さんはやり過ぎを恐れたのか、渋々ポケットから専用の磁気カードを取り出した。
「……はい。どうぞ。でも若奥様、先に言っておきますよ。若様に叱られても――」
「私が責任を取る」
星川千奈はカードを奪うように受け取り、振り返りもせず邸を出た。
千鳥結亜が送ってきた写真を見た以上、行けば痛むと分かっている。それでも、自分を止められなかった。
確かめたいだけだった。
鳴瀬颯真の、あの人を寄せつけない冷たさが――本当に自分にだけ向けられているのかを。
エレベーターの数字が跳ね、最上階で止まる。
このフロアはすべて鳴瀬颯真の私領域。秘書課はひとつ下で、彼の許可なく誰も足を踏み入れない。
星川千奈は食盒を握りしめた。掌に、じっとりと冷や汗がにじむ。
石川さんのカードで認証し、廊下の奥――社長室へ向かう。
扉は半開きだった。
中から、低いすすり泣きが漏れてくる。
星川千奈の足が止まる。扉の隙間から覗くと、床まで届く窓辺に、二つの影があった。
鳴瀬颯真は黒いシャツ。襟のボタンを二つ外し、引き締まった胸元がわずかに覗いている。
その前に立つのは、白いロングドレスの女。
細い身体。滝のような長い髪。涙を浮かべた目で、彼を見上げていた。
――小林琴音。
帰国していた。しかも堂々と、彼の会社に。千奈には入るなと言った、この場所に。
「颯真……」
小林琴音が、小さく名を呼ぶ。
鳴瀬颯真の重さとは裏腹に、琴音の感情は揺れていた。彼の視線が自分に落ちた瞬間、堪えきれず胸へ飛び込み、押し殺していた悔しさを吐き出す。
「分かってるでしょう。当時、離れたのは私も仕方なかったの……この数年、ずっと必死に頑張ってきた。いつかあなたに釣り合う人間になりたくて……」
「なのに、どうして? 星川千奈なんて何者でもないのに、どうして簡単にあなたを手に入れられるの……!」
「颯真、あなたが愛してるのは私でしょう……? どうして、娶ったのが私じゃなくて、彼女なの……!」
鳴瀬颯真は何も答えない。ただ静かに煙草を吸う。
吐き出された煙の向こうで、視線が琴音の涙の頬へ落ちた。
遠くからでも分かる。今の鳴瀬颯真には、いつも千奈に向ける苛立ちや氷の冷たさが薄い。
むしろ――優しい。
星川千奈は扉の陰で、全身が固まった。
鳴瀬颯真なら、女が抱きつけば突き飛ばして終わりだ。潔癖症なのは周知で、物に触れられることすら嫌う。まして身体など。
千奈がうっかり手に触れただけで、眉をひそめ、長く手を洗う男だ。
それなのに――今は。
突き飛ばさない。
琴音は彼の腰にしがみつき、涙も鼻水もシャツに擦りつけているのに、鳴瀬颯真は許している。
鳴瀬颯真の腕が、わずかに動いた。
千奈の心臓が喉まで跳ね上がる。
突き飛ばしてほしかった。いつも自分にするみたいに、冷たく「出ていけ」と言ってほしかった。
だが次の瞬間、鳴瀬颯真の手は拒絶ではなく、震える背中をやさしく叩いた。
宥めている。
「……もういい」鳴瀬颯真は、ため息混じりに言った。「泣くな。化粧が崩れる」
「いや……泣く……」
琴音は胸元に頬を擦りつけ、甘えるように呟く。
「颯真、私もう行かない。フランスに戻らない……やり直そう? あなたに奥さんがいてもいい。名分なんていらない。ただそばにいられるなら、何だってする……」
「ばかなことを」
鳴瀬颯真は煙草を消し、目尻の涙を指先で拭った。
正面から答えてはいないのに、その声音の甘さは、千奈が三年夢にすら見られなかったもの。
「戻ったなら落ち着け。個展の件は俺が人を付ける。誰にも嫌な思いはさせない」
星川千奈の爪が掌に食い込み、皮膚が痛む。それでも、胸の酸っぱさは押さえられなかった。
彼は元から冷淡なわけじゃない。優しさを知らないわけでもない。
冷たさも、苛立ちも、不耐も――星川千奈にだけ用意されたものだった。
初恋の前では、彼は穏やかで、気遣い深く、寄り添ってくれる。
この関係の中で自分は何だ。
二人を引き裂いた侵入者。悪役の駒。
星川千奈は抱き合う二人を見つめた。目の奥が焼けるように痛むのに、涙は一滴も出ない。
結婚して三年。鳴瀬颯真を狙う女は絶えなかった。
鳴瀬家の権力など抜きにしても、あの体躯、あの顔、そして人を寄せ付けない気配――J市の名媛たちの幻想を満たして余りある。
それでも彼は、この三年、名目上の妻である千奈以外、他の女を近づけなかった。
千奈は一度、馬鹿みたいに信じた。愛はなくても、婚姻にだけは誠実なのだと。
今日、この瞬間までは。
潔癖でも誠実でもない。
ただ――彼女たちが小林琴音ではなかった、それだけだ。
初恋には、誰も勝てない。
まして、手に入らなかった初恋なら。
「そこまで愛してるなら……どうして、あの時……私と結婚したの……」
星川千奈は呟いた。自分にしか聞こえない声で。
窓辺の二人がさらに近づく。鳴瀬颯真が少し俯き、顔が重なるほどに。
千奈の角度からは、キスしているように見えた。
綺麗で、残酷な光景。
もう見ていられない。あと一秒でもここにいたら、飛び出して問い詰め、最後の面子まで捨ててしまう。
星川千奈は身を翻し、逃げるようにその場を離れようとした。
「ガタン——」
鈍い音が、社長室前の静けさを破った。
焦って向きを変えたせいで、ヒールがカーペットの縁に取られた。足首がぐきりと捻れ、肘が入口の大きな鉢植えにぶつかる。
胸が凍る。肘の痛みなどどうでもいい。頭にあるのはひとつ――逃げろ。
だが、遅かった。
