第4章

「外に誰だ?」

鳴瀬颯真が不機嫌そうに吐き捨て、鋭い視線を向けた。

扉の外に立っていたのが星川千奈だと分かった瞬間、男はわずかに動きを止め、反射的に腕の中の小林琴音を押し退けた。

小林琴音はよろめいて二歩ほど下がり、瞳に傷ついた色が走る。だがそれはすぐ、薄い微笑みの奥へと隠された。

「星川千奈、何しに来た」

鳴瀬颯真は眉を寄せ、千奈を射抜くように睨む。

星川千奈はその場に立ち尽くし、手の中の食盒をぎゅっと握り締めた。

数分前まで、この男は別の女の涙を指先で拭い、落ち着けと宥め、全部手配すると約束していた。

それが今は――法律上の妻である自分を、仇でも見るような目で見る。

胸の奥がきりきりと痛んだ。けれど千奈はすぐに飲み込み、引きつった笑みを浮かべる。

「……ごめんなさい。お邪魔しました」

食盒をわずかに持ち上げる。

「石川さんが手を離せなくて。ついでに、お昼をお届けに来ただけです」

鳴瀬颯真の視線が食盒へ落ちる。表情は一ミリも和らがない。むしろ、その従順さが癇に障ったみたいに苛立ちが濃くなった。

――この女は、いつもそうだ。

傷ついているくせに歯向かわない。魂のない人形みたいで、彼にこの結婚の退屈さを突きつけてくる。

「言ったはずだ。俺の許可なく、会社に踏み込むな」

鳴瀬颯真は大股で近づく。

「どうした? 鳴瀬奥さんを長くやってると、人の言葉が理解できなくなるのか」

「……届けたら帰ります。すぐに」

千奈は思わず一歩引いた。鳴瀬颯真の肩越しに、その背後の小林琴音が目に入る。

琴音は、笑っているのか笑っていないのか分からない表情で千奈を見ていた。瞳の奥にあるのは、露骨な嘲り。

――見て。奪い取った男でも、心にいるのは私だけ。

「ここに置きますね」

これ以上、ここにいたくなかった。千奈は玄関脇の置物棚へ食盒を置く。焦りで動きがぎこちなくなり、指先が震えた。

言い終えた瞬間、残っていたわずかな尊厳まで削ぎ落とされた気がした。

――何をしてるの。大人ぶって、夫を他の女に譲るみたいに。

胸の中で自分を罵り、踵を返す。

「待って」

背後から、小林琴音の声が落ちてきた。

「星川さん。せっかく来たのに、入って座らないの?」

「星川さん」

その呼び方が、千奈から「鳴瀬奥さん」という立場をまるごと剥ぎ取る。

千奈は立ち止まったが、振り返らない。

「結構です。自分の分は弁えてますから。お二人の昔話の邪魔はしません」

吐き捨て、早足になる。ほとんど逃げるように。

だが――空腹と、一日ほとんど何も口にしていない身体が限界だった。

視界がすっと暗くなり、足がもつれる。

「――っ」

短い悲鳴とともに、身体が前へ倒れた。

転ぶはずだったその瞬間、横から伸びた腕が彼女の腰を掴み、強く引き寄せる。

鳴瀬颯真だった。

眉を深く寄せているくせに、腰を支える腕は思いのほかきつく、逃がさない。

「前も見ずに歩くのか? 星川千奈、目は飾りか」

口は相変わらず悪い。それでも手は離れない。

青白い顔に浮かぶ冷や汗を見たとき、彼の瞳に一瞬だけ、心配の色が走った。

「どうした」鳴瀬颯真は覗き込み、苛立ったように言う。「またちゃんと食ってないのか?」

その一瞬、千奈は眩暈がした。

――いま、この人は……心配してくれてる?

そう錯覚しかけたとき、割り込む声があった。

「星川さん、どうなさったの?」

小林琴音が追いつき、二人から数歩の場所で立ち止まる。鳴瀬颯真の手が千奈の腰にあるのを見て、瞳にどす黒いものが一瞬だけ閃いた。すぐに、心配そうな表情へと塗り替える。

「颯真、星川さんを責めないで」

琴音は袖口をそっと引いた。

「こんなに急いで来たのは、颯真が大事だからですよ。だって……私がフランスから戻ったばかりなのに、星川さん、すぐ知って駆けつけたんでしょう? 本当に、用心深いんですね」

案の定、鳴瀬颯真の瞳から心配は消え、深い嫌悪が戻った。

鳴瀬家の当主として、彼が最も嫌うのは支配と監視だ。まして相手が、手段を使って結婚を押しつけた星川千奈なら、なおさら。

「俺を監視してたのか?」

「違う……!」

千奈は心臓が跳ね、反射的に否定した。

「違う?」

小林琴音は柔らかく言いながら、逃げ道を塞ぐ。

「星川さん、私を見ても驚かなかった。知らなかったなら、驚きますよね? つまり……前から知ってたんじゃ」

そして怯えたふりで口元を押さえ、半歩退く。

「星川さん……夫婦なのに信頼もないんですか? 監視だなんて……」

鳴瀬颯真の顔が、底なしに暗く沈んだ。

「気持ち悪い」

次の瞬間、彼は支えていた腕を乱暴に振り払った。

「――っ!」

千奈はもともとふらついていた。支えを失い、身体が壁へと叩きつけられる。

ドン、と膝が床に落ちた。

「……っ、う……!」

痛みで息が詰まり、千奈はうずくまったまま動けない。

鳴瀬颯真は皺になった袖口をゆっくり整えながら、嫌悪の目を向けた。

「何が演技だ。盗み聞きも尾行もできるくせに。ちょっと押しただけで大怪我か?」

「颯真……」

小林琴音が彼の隣で、心配そうに言う。

「そんなに怒らないで。星川さんは、愛してるから極端なことをしてしまっただけです。怖い行為だけど……でも、奥さんですし」

千奈は壁に手をつき、必死に立ち上がろうとする。だが膝が激しく疼き、力が抜けてまた座り込んだ。

それでも顔を上げる。

瞳は真っ赤なのに、涙だけは落とさない。

「鳴瀬颯真……」

声が震える。

「あなたの中で私は、そこまで卑しいの? あの人の一言だけで、私を断罪するの?」

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