第7章
その目に宿る脅しは、あまりにも分かりやすかった。ここで逆らえば、次はもっと惨めな目に遭う――そう告げている。
星川千奈は深く息を吸い、目を閉じる。やがて黙って後部座席のドアを引いた。
乗り込んだ瞬間、胸の奥がひやりとする。
よそ者――いや、よそ者以下だ。相乗りのくせに運転手の顔色をうかがわされる、ただの乗客みたいで。
前の席では小林琴音がシートベルトを締め、鳴瀬颯真へ振り向いて甘く笑った。
「颯真、ありがとう。やっぱり颯真がいちばん優しい」
鳴瀬颯真の表情がわずかに緩む。
「ちゃんと締めたか?」
「うん」
車はエンジン音を低く響かせ、ガレージをゆっくり出ていく。車内には小林琴音の好きなクラシックが流れていて、旋律は穏やかで上品だった。
星川千奈は後部座席の隅に身を縮め、熱を持った頬を冷たい窓ガラスに押し当てる。
小林琴音は体を傾けたまま、鳴瀬颯真の整った横顔に視線を絡めた。
「颯真、覚えてる? 小さい頃よく行った、あの木。私、颯真のためにセミを取ろうとして、落ちて脚を折ったでしょ。あのとき颯真、私より泣いてた。私を背負って、何キロも歩いて病院まで連れてってくれたんだよね」
鳴瀬颯真はルームミラー越しに後部座席の星川千奈を一瞥し、淡々と返した。
「覚えてる。お前、ちっこいくせに大泣きして、鼻水も涙も俺の背中に全部こすりつけてた」
「してないし」
小林琴音が軽く彼の肩を叩き、甘えるように言う。
「颯真のほうが言ったんだよ。『お前が俺のせいで怪我したんだから、一生背負う。大きくなったら嫁にする』って」
「子どもの口約束だ」
そう言いながら、鳴瀬颯真の口元はわずかに上がっていた。
「でも私は本気にした」
小林琴音は目を細めて笑う。
「颯真、もし私たち、あの三年離れてなかったら……今ごろ、もう――」
濃蜜なやりとりを聞かされ続け、星川千奈の胃がむかついた。もう平静のふりなどできない。
ドアノブをきつく掴む。
「止めて」
鳴瀬颯真の笑みが、一瞬で消えた。
「星川千奈。今度は何の発作だ」
「止めろって言ってる!」
星川千奈は声を張り上げる。
「鳴瀬颯真。昔話で盛り上がりたいなら、場所を変えて! 正妻を隣に置いて見せつけないでよ! 吐き気がする!」
キィィ、と鋭い音。鳴瀬颯真が急ブレーキを踏み、強い慣性で星川千奈の体が前席の背に叩きつけられた。
鳴瀬颯真が振り向く。氷のような視線。
「俺を運転手扱いか。呼べばいつでも止まるとでも?」
「颯真、怒らないで。私が悪い。昔の話なんて、出すべきじゃなかった……」
小林琴音が袖を掴み、やわらかく宥める。
「星川さん、気分が悪いなら……私、もう言わないから……」
「その薄っぺらい顔、やめて」
星川千奈は爪を掌に食い込ませた。
「私がいなくなってからやりなよ」
「降りたいのか?」
鳴瀬颯真が嘲る。
「いいぞ。そんなに根性あるなら、今すぐ消えろ」
星川千奈は迷いなくドアを押し開け、飛び出した。
川沿いの風が強く、髪がぐしゃぐしゃに乱れる。
マイバッハの窓が降り、鳴瀬颯真の冷たい声が流れてきた。
「ここじゃタクシーなんて捕まらない。家まで歩けば二時間だ。星川千奈、意地を張るなら、二度と俺に泣きつくな」
「泣きつく?」
星川千奈は鼻で笑う。
「鳴瀬颯真。私がいちばん後悔してるのは、昔あなたに一度でも縋ったこと」
鳴瀬颯真の瞳孔がわずかに縮み、胸の奥がちくりと痛んだ。
「……上等だな」
鳴瀬颯真は前を向き、アクセルを踏み抜く。黒い車体は一瞬で遠ざかっていった。
走り去る黒いセダンを見送るうちに、堪えていた涙がとうとうこぼれ落ちた。
……
空は鉛色で、雲が低く垂れこめている。雲の奥で、鈍い雷鳴がごろごろと転がった。
ここはヴィラ区へ続く道。前も後ろも何もなく、人影ひとつ見えない。
星川千奈はそう遠くないうちに、ヒールで踵の皮が剥けて刺すように痛んだ。靴を脱ぎ捨て、裸足でアスファルトを踏む。
「ゴロゴロ――」
稲妻が空を裂き、次の瞬間、豆粒のような雨が叩きつけてきた。
数秒で、星川千奈のシルクのロングドレスはびしょ濡れになり、肌に張りついて細い輪郭を浮き上がらせる。
足裏はもう切れていた。血と雨水が混ざり、大雨に洗い流されていく。
初秋の空気は冷たく、星川千奈はぶるぶる震えながらも、意地だけで足を止めなかった。
限界が近づいた、そのとき。
遠くから二本のヘッドライトが差し込む。
キィッ、と耳障りなブレーキ音。黒いマイバッハが彼女の前に横づけされた。
ドアが乱暴に開き、鳴瀬颯真が傘も持たずに飛び出してくる。雨を裂くように大股で近づき、目の前で怒鳴った。
「星川千奈、死にたいのか!」
ずぶ濡れで立ち尽くす彼女を見た途端、怒りが抑えきれないように噴き上がる。
彼は数キロ先まで走っていた。なのに頭の中は星川千奈でいっぱいで、どうにもならなかった。
衝動のまま小林琴音を大通りで別の運転手に引き渡し、車を反転させた。そして戻ってきて、この光景だ。
「乗れ!」
鳴瀬颯真は氷のように冷たい手首を掴む。
「俺と帰る!」
「離して……!」
星川千奈は力任せに振りほどこうとし、掠れた声で言った。
「あなたの車なんか、乗らない……」
「乗らない? じゃあどこへ行く。ここで野垂れ死にか?」
鳴瀬颯真が吼える。
「星川千奈、いつまでガキみたいに暴れる!」
「私が暴れてる?」
星川千奈は顔を上げた。雨が赤く腫れた頬を叩く。
「鳴瀬颯真、放っとけばいいじゃない。外で死ねって言ったの、あなたでしょ!」
「黙れ!」
鳴瀬颯真は苛立ちに顔を歪める。彼女の抵抗など意に介さず助手席のドアを開け、荷物でも押し込むみたいに乱暴に突っ込もうとした。
「ここは嫌!」
星川千奈がドア枠にしがみつき、全身で拒む。
「小林琴音が座った場所でしょ。汚い」
