第9章
鳴瀬颯真がこちらを見つめる。その瞳いっぱいの愛情に、心臓が理由もなくきゅっと縮んだ。けれど、それも一瞬だけ。
鳴瀬颯真は、首に回されていた星川千奈の指を一本ずつ外していく。
「星川千奈。頭でも焼けたのか?」
星川千奈の腕が、力なく落ちた。
「俺たちの関係は、籍を入れた日に交わした契約書に書いてある」
濡れた手を、傍らの乾いたタオルで拭いながら。声は薄い氷のように冷たい。
「鳴瀬家が金を出して星川グループを延命させる。お前は鳴瀬家の若奥様になる。――ただの取引だ」
「愛?」鼻で笑う。
「星川千奈、人間、欲張りすぎるとみっともないぞ。若奥様の座に座って、鳴瀬家の金も使って、それでもまだ俺の心が欲しいのか? 笑わせる」
一言一言が刃になって、千奈の胸の奥へ突き刺さる。
――そう。笑えるくらい、みっともない。
星川千奈は口元だけを持ち上げた。笑っているようで、どこにも笑みがない。
「……そうね。私が欲張りだった」
その顔が、なぜだか癇に障ったのか。鳴瀬颯真の眉間がわずかに寄る。
「もういい。芝居はやめろ。風呂は三十分で上がれ。今夜は兄貴の歓迎会だ。分家も全員来る。恥をかかせるな」
言い捨てると、彼は振り返りもせず浴室を出た。
バタン、と乱暴な音。扉が閉まる。
浴室に静けさが戻り、残ったのは蛇口から落ちる水のざあざあという音だけ。
星川千奈はそのまま湯の中へ沈んだ。ぬるい水が口元を覆い、息が詰まる。苦しくなってようやく、まだ生きているのだと思う。
二十分後。
星川千奈は深い墨緑のベルベットのロングドレスに着替え、きっちりフルメイクを施した。頬の指の跡はコンシーラーで隠し、唇には真紅。
鏡の前で口角を引き上げる。――形だけの笑み。
そして寝室の扉を開け、がらんとしたリビングへ視線を走らせた。
「颯真は?」
「颯真様は……」石川が歯切れ悪く言う。「お電話が入って、小林さんのほうで急ぎの用があるみたいで……先に出られました」
先に出た。
――私だけ置いて、彼の初恋の女のところへ。
夫婦で宴に出る、その最低限の体面すら、鳴瀬颯真は与えてくれない。
「分かった」
ずいぶん間を置いてから、千奈は淡々と答えた。
「車を回して」
鳴瀬家の本家。
ここはJ市でも名の知れた高級住宅街で、今夜は高級車が列をなし、香水とシルクの波が揺れていた。
星川千奈が着いた頃には、宴はすでに始まっている。
彼女はたった一人でホールへ足を踏み入れた。端正で、それでいて艶やか。視線がいくつも絡みついて離れない。
鳴瀬家の若奥様が単身で現れ、肝心の颯真が姿を見せない――それ自体が、噂の種だ。
「まあ。義姉さんじゃないですか」
甲高い声が、人波を裂いた。
星川千奈が振り向くと、鳴瀬颯真の従妹・鳴瀬芽衣がシャンパンを片手に、数人の令嬢に囲まれて近づいてくる。
芽衣は昔から千奈を気に入らない。金目当てで鳴瀬家に入り込んだ没落女――そう決めつけている。
「芽衣」
千奈は軽く会釈した。
「どうしてお一人で? 颯真兄さんは?」
芽衣は大げさに千奈の背後を覗き込み、にやりと笑う。
「琴音姉さん、帰国したって聞きましたけど。まさか颯真兄さん、迎えに行ってるとか? まあ当然ですよね。だって、颯真兄さんが心のいちばん大事な場所に置いてるのは、そっちですもん」
周囲から、くすくすと笑いが漏れる。
千奈はバッグの持ち手をきゅっと握った。表情は崩さないまま、静かに返す。
「颯真は仕事で、少し遅れるだけ。小林さんは鳴瀬家のお客様よ。迎えに行くのも礼儀でしょう」
強がり。芽衣は白けた顔で目を転がし、ふと千奈の首元に視線を留めた。
昨夜、ベッドの上で颯真が昂ったときにつけた痕。
ファンデで隠し、髪も下ろしている。それでも、さっきの動きで暗紅がふっと覗いた。
芽衣が近づき、指を差して大声を張り上げる。
「義姉さん、その首の、なに?」
その一言で、周囲の視線が一斉に集まった。
千奈の顔色が変わる。反射的に首を押さえた。
「隠すことないじゃないですか!」
芽衣は千奈の手を乱暴に払いのけ、コンシーラーを指先でわざと擦って一部を落とした。灯りの下、痕がはっきり浮かび上がる。
「義姉さん、さすがに品がなさすぎません? 今日は兄の歓迎会ですよ。そんな跡つけて堂々と来るなんて、どれだけ必死だったか見せびらかしたいんですか?」
ざわっ、と空気が騒めく。囁き声が、あからさまな音量になっていく。
「清楚ぶってるのに、裏じゃこんな……」
「鳴瀬芽衣。言い方に気をつけて」
星川千奈は表情を冷やした。
「これは私と颯真の夫婦のことよ。あなたに口を出される筋合いはない」
「夫婦のこと?」
芽衣が笑い飛ばす。
「颯真兄さんがあなたを好きじゃないの、みんな知ってますよ。琴音姉さんが帰ってきた途端、わざわざこんな跡作って。琴音姉さんに見せつけて、縄張り主張? 身の程知りなさいよ」
「ほんと、鏡見たら?」芽衣の取り巻きも口を揃える。「星川家なんてもう潰れかけでしょ。鳴瀬おばあさまが情け深いから入れてもらえただけなのに、図々しい」
千奈は人の輪の中心に立たされる。四方八方、嘲りの目。
服を剥がされて投げ出されたみたいに、晒されて、笑われて――息が詰まる。
本来なら隣に立ち、すべてを遮ってくれるはずの夫は、いま別の女のそばにいる。
「どうしたんだ?」
ふいに穏やかな声が響き、ざわめきを断ち切った。
人々が自然に道を開く。白いスーツに金縁眼鏡の男が、ゆっくり歩み寄ってくる。
柔らかな気品。眉目は鳴瀬颯真にどこか似ているのに、刺すような鋭さがない。代わりに、包むような優しさがある。
鳴瀬庄司――鳴瀬家の長男。今夜の主役だった。
