第3章
日向雫は口の中に苦さが広がるのを感じた。
「事情ってなに? ほかの女の妊婦健診に付き添う事情?」
新田朱音が慌てて言う。
「私は庇ってるわけじゃないの。考えてみて。この五年、あの人の周りにほかの女の影なんてあった? あれだけ責任を重く見てる人が、どうして……」
「どうして浮気するはずがない、って?」日向雫が言葉を継いだ。
「朱音、私もそう思ってた。でも、現実を見ちゃったの」
電話の向こうが静まり返る。
長い沈黙のあと、新田朱音が小さく言った。
「雫……それで、これからどうするの?」
「わからない」日向雫はそっと下腹に触れた。
「この子は産みたい。でも、鷹司蓮矢は望まない」
「本人がそう言ったの?」
「言ってない。でも、そういうこと」
新田朱音は少し迷ってから、提案する。
「なら、急いで決めないで。明日、私が一緒に鷹司蓮矢のところへ行く。面と向かって聞こう。もし本当に望まないなら、あなたの決断は全部支える。でも、もし……本当に事情があるなら」
日向雫は答えなかった。けれど心の奥が、わずかに揺れる。
「雫?」
「……うん」日向雫は鼻をすするように息を吸い、頬の涙の跡を拭った。
「わかった。ちゃんと聞いてから決める」
「今どこ? 私、行くよ」新田朱音はまだ不安げだ。
「大丈夫。家にいる。もう遅いし、無理しないで」
「なにかあったら、いつでも電話して」
通話を切った直後、主寝室のドアが控えめにノックされた。
前田さんが入ってくる。
「奥様。鷹司社長より、こちらをお渡しするようにと」
差し出されたのは、上品な装飾の礼箱だった。
日向雫は受け取って蓋を開ける。
中にはシャンパン色のイブニングドレス。昨夜のスリップと、ほとんど同じ色味。
さらにカードが一枚。鷹司蓮矢の筆跡。
【明晩の慈善パーティー。19時に迎えに行く】
日向雫の指先が、きゅっと強張る。胸の奥に、また小さな火が灯った気がした。
――もしかしたら。
この子のことを知ったら、鷹司蓮矢は違う選択をするかもしれない。
――もしかしたら。
全部、ただの誤解だったのかもしれない。
明日の夜、その機会に……全部はっきりさせよう。
*
翌夜。慈善パーティーの会場は、市内でいちばん高級なホテルの最上階。
シャンデリアが眩い光を跳ね返し、香水と笑い声が渦を巻く。グラスが触れ合う澄んだ音が、あちこちで鳴った。
日向雫が鷹司蓮矢の腕に手を添えてホールへ入った瞬間、四方から視線が突き刺さるのを肌で感じた。
好奇、探り、そして憶測。
誰もが知っている。鷹司蓮矢には、釣り合わない妻がいる、と。
そして彼女は今日が初めての公の場。
「緊張するな」
鷹司蓮矢が低い声で言い、手の甲を軽く叩いた。
日向雫は黙ってうなずく。
彼が贈ったシャンパン色のドレスは驚くほど身体に合い、白い肌と細い腰を際立たせていた。
「蓮矢!」
聞き覚えのある声。
雨宮静佳が、赤い背中の大きく開いたドレスで近づいてくる。完璧に整えられたメイク、眩しい笑顔。
彼女は当たり前のように、鷹司蓮矢の反対側の腕へ絡みつく。
それからようやく日向雫に気づいたふりをした。
「日向雫も来たの? 今日、すごく綺麗」
日向雫は、静佳の指が蓮矢の腕を掴むのを見つめたまま、何も言えなかった。
鷹司蓮矢も動かない。むしろわずかに身体を傾け、静佳が寄りやすいようにした。
日向雫は察して、自分の手をそっと引いた。
「二人で話して。私は向こうを見てくる」
「日向雫」鷹司蓮矢が呼び止める。
彼女は足を止めたが、振り返らない。
「ふらつくな。あとでオークションだ、俺の隣に座れ」
感情の読めない声。
日向雫は返事をせず、化粧室へ向かった。
扉が閉まる音がして、ようやく呼吸が戻る。
鏡の中の自分は、目尻がうっすら赤い。
泣いちゃだめ。
メイクが崩れる。
そう思うのに、目の奥がつんと痛む。
日向雫は蛇口をひねり、冷たい水で頬を叩いた。ぱしゃ、ぱしゃ、と水音。
それから無理やり口紅を引き直し、深く息を吐く。
――大丈夫。平気。
背筋を伸ばし、ドアを押して廊下へ出た。
化粧室を出てすぐ、曲がり角の先から女たちの笑い声が聞こえた。
その中に、聞き慣れた声がある。雨宮静佳だ。
「このネックレス? 蓮矢がくれたの。高くないよ、数百万くらい。私、この色が似合うって」
別の女が甘い声で持ち上げる。
「鷹司社長、ほんと優しい。最近、副カードも渡したって聞いたけど?」
「うん」静佳はさらりと言った。
「海外に長くいたから、日本の決済に慣れてないでしょって。必要なものは自分で買えってくれたの」
「限度額はいくら?」
静佳がくすりと笑う。
「ブラックカードの副カードだし、限度額なんてないんじゃない? 蓮矢、こういうところは昔から気前がいいの」
「じゃあ鷹司奥さんは? 奥さんにも副カードあるの?」
空気が、ふっと止まる。
少し間を置いて、静佳が柔らかく言った。
「それはわからない。でも日向雫って、そういうの気にしないみたい。いつも地味だし、アクセもあんまり付けないでしょ」
別の女が嗤うように言う。
「見てなかった? 日向雫が今日つけてるネックレス、60万ちょっと。しかもボーグリンの旧型」
「鷹司奥さんなんだからさ、本人が気にしなくても鷹司社長の顔があるでしょ。あんなみすぼらしい格好、鷹司家の恥じゃないの?」
日向雫は、そこから動けなかった。
手足の先が冷え、血の気が引く。
無意識に、首元のネックレスへ触れる。
たった……数十万。
静佳にはブラックカードの副カード。数百万の宝飾品。
なのに、自分は名目上の「鷹司奥さん」なのに、身につけているもの全部をかき集めたって、静佳のネックレスひとつにも敵わない。
――それでも、ちゃんと話せばわかり合えるだなんて。
関係をやり直せるだなんて。
……笑える。
角の向こうで、静佳の声はまだ続いていた。
「でも蓮矢も大変だと思う。昔、日向雫と結婚したのだって恩があったからでしょ。みんな知ってるよね? 蓮矢を助けたときに、日向雫は手を駄目にしたって」
「じゃあ、あなたとは……?」
静佳の声は、優しくて、揺るがない。
「私たちは違うの。蓮矢と私は、本気で愛し合ってる。あの頃は私が若くて、わがままで……それで海外に行った。でも今はもう決めたの。戻ってきた。彼と一緒になる」
「じゃあ鷹司社長は、日向雫のこと、どうするの?」
