第5章
雨宮静佳の声が耳に届いた瞬間、日向雫の心臓がどくん、と嫌な音を立てた。頭に浮かんだのは、たったひとつ――
この絵は、もう守れない。
雫は椅子に縫い付けられたみたいに固まった。会場中の視線が、鷹司蓮矢へと集まっていく。
誰かが、感嘆まじりに囁く。
「なるほど……鷹司社長、美人のために大金を投じたってわけか!」
「鷹司社長は若くして成功して、奥様もあんなに上品で……まさに理想の夫婦だよな!」
……。
絵の価値は、いつの間にか「鷹司蓮矢の愛の証明」にすり替わっていた。
大きな恐怖に包まれ、雫は必死に鷹司蓮矢の袖を掴む。
「蓮矢。約束したでしょう、これは私にくれるって」
譲れない。絶対に。
涙と吐き気を押し殺しながら、雫は初めて――この手で、相手を縛ろうとした。
「蓮矢、これは……先生の遺作なの。ずっと探してた。私にとって、どれだけ大切か……分かってるでしょう」
顔が熱い。その熱が苦い唾と一緒に喉を落ちて、逆流するように鉄錆の匂いを連れてくる。
鷹司蓮矢が、わずかに眉を寄せた。
雫は、彼の顔が見られない。
落札したのは彼だ。争う資格なんてない。後ろめたさで胸が潰れそうで、声は低く掠れた。
「蓮矢……私、ほかは全部譲れる。けど、この絵だけは……」
「……こほっ」
雨宮静佳が口元を覆って咳をした。風が吹けば倒れそうな、儚い咳。
鷹司蓮矢はほとんど反射みたいに顔を向け、低く尋ねる。
「大丈夫か?」
静佳は片手をそっと腹部に添え、首を振った。目を伏せて、細く、悔しそうに声を落とす。
「この数日、ぜんぜん眠れないの……目を閉じるたびに、あの夜のことが浮かんで……」
雫には鷹司蓮矢の表情は見えない。けれど、彼の身体が一瞬だけ強張ったのが分かった。
彼は彼女を気にかけている。大事にしている。
そして雫は――二人の間に割って入る、悪者みたいだった。
静佳はかすかに笑う。その瞳はどこか寂しげで。
「さっきこの絵を見たら、心がすごく落ち着いたの。これが芸術の力……なのかしら」
目尻に薄い水の膜を浮かべながら、彼女は聞き分けよく引き下がる。
「……いいわ。日向雫がそこまで欲しいなら、譲る。私は平気」
静佳は侍者から絵を受け取り、そのまま雫へ差し出した。瞳の奥には、気づかれない程度の挑発が潜んでいる。
雫の手が宙に浮いた。指先が、ひんやりした木枠に触れそうになった、そのとき。
「珍しいな。お前が好きだと言うものは」
鷹司蓮矢の声。
「手に取ったなら、それはお前のものだ」
雫の伸ばした手が、ぴたりと止まった。指先が白くなる。血が一瞬で凍りついたみたいに、全身の力が抜け落ちる。
機械みたいに首を回し、彼の深い瞳を見つめる――けれど、その視線は最初から最後まで、雨宮静佳だけを追っていた。
「……本当に?」
静佳の顔がぱっと華やいだ。絵をぎゅっと胸に抱きしめると、雫へ向けて、柔らかそうでいて甘くない笑みを浮かべる。眉尻と目尻から、得意げな色が漏れた。
わざと顎を上げ、まだ目立たない腹を少しだけ突き出す。
「日向雫、譲ってくれてありがとう」
「安心して。私の部屋、広いから。ベッドの頭のところに掛けて、毎日眺めるわ。そうすれば、この素晴らしい絵にも、蓮矢の気持ちにも、ちゃんと報いられるでしょう?」
雫は目を伏せ、胸の奥の酸っぱさと喪失感を隠した。
鷹司蓮矢の露骨な肩入れの前では、彼女に争う資格なんてない。
命の恩――彼がいちばん重く受け止めているはずのそれでさえ、相手が雨宮静佳なら、全部譲ってしまう。
彼の静佳への偏愛は、ただひとつ。雫がどれだけ願っても、手に入らないもの。
鷹司蓮矢は絵を上田直樹へ無造作に渡し、冷えた声で言った。
「これを雨宮静佳の家へ。本人の希望通りに、お前が責任を持って掛けてこい」
「承知しました」
上田直樹は恭しく受け取った。ふと雫の顔を見て、その青白さに胸の内でため息をつく。勇気を振り絞って、小声で進言した。
「若様……でしたら、奥様にもう一品、お気に召すものを。今日は良い絵も多うございますし」
鷹司蓮矢は頷き、淡い目で雫を見る。
「ほかに、何が欲しい?」
雫は乾いて固まった眼球を動かし、焦点の合わない目で彼の顔を捉えた。
変わらず端正で、眩しいほど整っているのに、その瞳の深さが――恐ろしいほど、見知らぬものに思えた。
喉がひりつく。声は掠れて音程さえ崩れる。
「……私は、あの絵が欲しいだけ」
雫は息を吸い、目に溜まった熱を押し戻した。背筋を伸ばし、真正面から見据える。ひとつひとつ、全ての勇気を注ぎ込んで言い切る。
「鷹司蓮矢。私があなたの妻よ。あなたが落札したものは、先生婦の共有財産。取り戻す権利は、私にある」
雫はいつだって従順だった。こんなふうに尖った顔を見せたことはない。
口論も不得意で、相手を追い詰める言葉の使い方も知らない。だからこの宣言は、羽のように軽く、威圧には程遠かった。
鷹司蓮矢は指先で眉間を押さえる。
「日向雫。前のお前なら、そんな聞き分けのないことは言わなかった」
「ただの絵だ。お前の先生の私設美術館は市内にある。気に入ったなら、館長に話を通す。好きなのを選べ」
雫は口を開く。言いたいことが、喉元で渋滞した。
違う。
あれは、先生が雫のために描いた一枚だった。若い頃の、いちばん大切な光だった。自分が学業を投げ出して先生を傷つけなければ、あの絵が競りに出ることなど、ありえなかった。
でも言葉は、結局、苦い塊になっただけ。雫は目を伏せて、溢れそうな悔しさを無理やり飲み込む。
そこへ、静佳の甘く弾む声が、また割り込んできた。
「蓮矢、この絵……本当に好き。あなた、私に優しいのね」
「気に入ったなら、それでいい」
雫は半分だけ目を閉じた。すると腹の奥が、ちくり、と小さく沈むように痛んだ。
白くなる唇を噛み、手が勝手に下腹へ伸びる。
――赤ちゃんが、分かってるの? ママが苦しいって。
雫はゆっくり濁った息を吐き、胸の内で子に謝った。
ごめんね。
パパはママのことが好きじゃない。だから――きっと、あなたのことも望まない。
その瞬間、心の底に残っていた最後の期待が、灰みたいに崩れ落ちた。
妊娠のことは、一生、鷹司蓮矢には知らせない。
雫は二人が楽しげに話す姿も見なかった。心を引き裂いたあの絵にも、もう二度と目を向けない。
ただ俯いたまま、足音を限りなく消して、喧騒の会場を抜け出した。
外に出ると、夜風が頬を撫でる。ひやりとした冷たさが、胸を塞ぐ息苦しさを少しだけ散らしてくれた。
雫は路肩で車を止める。
運転手が窓から顔を出した。
「どちらまで?」
「……家に」
そう言いかけた瞬間、腹の底から煮え立つような苛立ちと悔しさが突き上げた。
帰りたくない。がらんとした屋敷に戻って、何もない空気を吸いたくない。
雫は唇を噛み、喉の渇きを堪えて言い直す。
「美術館へ」
タクシーは街を流れていく。雫は窓にもたれ、また目の奥が熱くなった。
美術館に足を踏み入れた瞬間、ひんやりした空気が墨の香りを連れて押し寄せる。張り詰めていた神経が、少しだけほどけた。
ここは先生の作品だけを集めた展示区画だ。どの一枚にも、彼女の若い日の熱と憧れが閉じ込められている。
雫はゆっくりと歩き、『碧竹』の前で立ち止まった。翠の竹がすっと伸び、筆致は力強い。先生の初期の代表作。
昔、先生は雫の頭を撫でて言った。
「雫。お前には才がある。その絵への真心だけは、手放すな」
なのに自分は、学びを捨てた。先生が最後に誘ってくれた出展の機会さえ、欠席した。
雫の涙が、もう堪えきれなくなる。頬を静かに伝い、冷たい展示ケースのガラスに落ちて、じわりと小さな染みを作った。
「先生……ごめんなさい……」
鼻にかかった声で呟き、指先をそっとガラスへ当てる。
そのとき。
背後から、骨ばった綺麗な手が伸びてきて、清潔なポケットティッシュを差し出した。指先から、かすかな松の木の香りがする。
穏やかな声。
「涙、拭いたほうがいい」
