第2章 離婚

スマホが、また震えた。

【承認しろ】

画面越しでも、命令の圧が伝わってくる。

夏目千尋は画面を見つめたまま、頭の中がぐちゃぐちゃだった。

神崎雅臣の立場なら、名目上の妻である自分を追加するのは不自然じゃない。帰ってきた以上、形だけでも整える必要があるのだろう。

……もういい。もし彼が昨夜の相手が自分だと知っているなら、逃げても無駄だ。

夏目千尋は深く息を吸い、「承認」を押した。

友だち追加が完了しました――そう表示が弾ける。

純黒のアイコンが点いて、消えて、また点いて……。

ようやく、メッセージが届く。

【離婚しろ。条件はお前が出せ】

夏目千尋は数秒、固まった。

離婚?

結婚して三年。逃げられて三年。唯一の接点は昨夜の一夜――それなのに、帰国早々に離婚を突きつけてくるなんて。

泣けばいいのか、笑えばいいのか。自分でも分からなかった。

ただひとつ、確かなことがある。

少なくとも彼は、昨夜の相手が“妻”だとはまだ掴んでいない。

夏目千尋はスマホを握り締め、その一行を長いこと見つめた。

結局、返信はしなかった。

今は離婚できない。夏目家のものも取り返していないし、金も手にしていない。

どうしても七日後だ。妊娠しているか確かめてから。

もし妊娠していなかったら、勢いで離婚した瞬間、夏目家と交渉するカードさえ失ってしまう。

夜、熱いシャワーを浴びてベッドに潜り込んだのに、脳裏は勝手に暴れ出す。

男の体温。荒い息。押し潰されるように跳ねた、あの心臓――。

下腹が、じっとり濡れた。

苛立って布団を頭まで引き上げる。

……狂ってる。

同じ頃、光朝クラブ最上階のスイート。

神崎雅臣は襟元を緩め、ソファに凭れていた。気怠げな姿勢のまま、長い指先に煙草を挟む。

ダブルベッドは乱れ切り、さっきまでの狂騒をありありと物語っている。

テーブルのスマホは点いたまま、女からの返事はいつまで経っても来ない。

口元に、薄く冷たい弧が浮かんだ。

夏目博夫がどんな男かは、よく知っている。

当時、神崎家に頭を下げて婚約の履行を迫ったのは、権勢目当てに決まっていた。そんな男が育てた娘に、まともさを期待するほうが滑稽だ。

返さないのは、吊るつもりか。

それとも、もっと大きく毟るつもりか。

神崎奥さんという肩書きは、一度きりの取引より、ずっと高い。

ノックもなく、扉が開いた。

助手の白石深尾が、タブレットを手に入ってくる。

「神崎社長。ご指定の件、当たれました」

神崎雅臣は煙を吸い、短く言った。

「言え」

白石深尾がタブレットを差し出す。映っているのは監視カメラの映像だ。

給仕の制服を着た女が、こそこそと個室へ滑り込む。意図的に顔を伏せてカメラを避けているが、入室前の一瞬だけ、正面が切り取られていた。

白い肌。

地味な制服でも隠しきれない、しなやかな曲線。

神崎雅臣は目を細めた。瞳の奥を、危うい影が横切る。

「正面はこの一コマだけです」白石深尾が言う。「身元、さらに追いますか?」

「追うな」

神崎雅臣は煙草を揉み消し、長い脚を投げ出した。眼差しに、わずかな愉悦が滲む。

「餌に食いついた魚なら、そのうち自分で浮かび上がる」

白石深尾は頷き、ふと思い出したように続けた。

「海外で社長に隠し子がいると流した女は、先ほど見つけ次第、指示通り処理しました。今後、目障りになることはありません」

「……ああ」

神崎雅臣は立ち上がり、窓辺へ歩く。

足元に広がるのは、都市の灯の海。

逃げ足だけは速い。

小さく笑った。だが、その笑いには温度がない。

薬を盛って、抱かれて、それで逃げる?

――何を企んでいるのか。見届けてやる。

……

三日後、ヨルクラブ。

夏目千尋は親友に引っ張り出され、酒で憂さを晴らしていた。

「ほんとに我慢するの?」小林鈴奈が憤然とする。「夏目家の連中、あんたのお母さんの形見で脅して神崎家の子を産めって……人間のやることじゃない」

夏目千尋は酒を呷り、乾いた笑いを漏らす。

「……他にどうしろっていうの。形見が向こうにある」

「で、神崎雅臣の子を産む気?」小林鈴奈は声を落とした。「あの男、相当やばいって聞く。向こうにいた頃から手が汚いって。帰国してからは黒も白も握ってる。逆らった奴で無事だったの、いないってさ。気をつけてよ」

夏目千尋は、あの夜の光景を思い出しそうになり、首を振って追い払った。

「種を借りるだけ。産んだら金もらって消える。関わりたくない」

数杯で、軽く酔いが回る。

トイレへ立ち、薄暗い廊下を壁伝いに歩いた。

角を曲がった瞬間、視界の端に長身の男が映る。誰かと話していた。

黒いシャツに灰色のスラックス。

生まれつきの矜持と、刃みたいな危険を纏っている。

神崎雅臣――!

酔いが、一気に引いた。

神崎雅臣が気配を察したように、ゆっくりこちらを見る。

目が合った。

心臓がぎゅっと縮み、夏目千尋は反射的に背を向けた。鼓動が耳を打つ。

嘘でしょ。こんな偶然、ある?

あの夜は灯りがなかった。顔なんて――分かるはずがない。

落ち着け。そう言い聞かせながら、スマホで小林鈴奈に送る。

【急用できた。先に出る。あとはよろしく】

送ってすぐ、早足で廊下を抜け、逃げるように店を飛び出した。

背後に猛獣でもいるみたいに。

夜風が頬を撫で、ひやりと冷たい。

タクシーを拾おうと手を上げた、その時。

黒いマイバッハが音もなく滑り込み、彼女の横で止まった。

次の瞬間、扉が開く。

男が長い脚で降り立ち、夏目千尋が反応する間もなく、手首を大きな手で掴まれた。

そのまま、車内へ投げ込まれる。

革のシートに倒れ込み、起き上がろうとした瞬間、男が覆いかぶさった。

扉が「バン」と閉まる。

「……逃げるな」

狭い車内を、男の匂いが支配する。

神崎雅臣が顎を捏ね、笑っているようで笑っていない低い声を落とした。

「こないだは随分と度胸があったじゃないか。なあ?」

夏目千尋の血が、一瞬で凍った。

――バレてる。

前のチャプター
次のチャプター