第4章 彼女のスカート
その女を千尋は知っていた。神崎雅臣と幼いころから一緒に育った幼なじみ――三上奈菜。
大学を卒業して奈菜が海外へ出たあと、雅臣まで後を追うように姿を消した。きっと、全部あの女のためだったのだろう。
そして今、突然の帰国。
奈菜に「相応の立場」を与えるつもりに違いない。
夏目千尋は半歩退いて、距離を取った。
「人違いです。私たち、会ったことありません」
机上の資料をまとめて鞄に押し込む。
「神崎社長が本日お時間を取れないのでしたら、これで失礼します」
甘ったるい見せつけなど見たくない。踵を返し、会議室をきっぱりと後にした。
千尋は足早に歩き、エレベーターに滑り込んだところでようやく肩の力が抜ける。
腕を絡める女と、それを受け入れる男。
脳裏に焼きついた光景を反芻して、胸の奥がひどく冷えた。――滑稽だ。
盛天広告会社に戻ると、千尋はそのまま部長室のドアを押し開けた。
「部長、星盛グループの件なんですけど、担当を替えてもらえませんか?」
モニターの前にいた部長が顔を上げ、眉間に深い皺を刻む。
「担当替え? 石川は休んでる。これだけの規模を回せるのは、お前くらいだろ。それに大口だぞ。取れたら歩合は最低でも7桁。普段あれだけ稼ぎに執着してるのに、金を捨てる気か?」
千尋は下唇を噛み、迷ってから口を開いた。
「向こう、うちの案にあまり満足してないみたいで……顔なじみの人のほうが話が通るかと思って」
咄嗟に作った言い訳だった。
「満足してないなら直せ! 満足するまで直す! そんなことも分からんのか」
部長は机をコツコツ叩き、言い切る。
「アンナ。今は人手が足りない。お前に任せる。逃げるなよ」
社内では皆、英名で通している。
神崎雅臣が、自分が会ったこともない妻だと気づくはずがない――。
千尋は指先をきゅっと握りしめ、それ以上は何も言わずに席へ戻った。
退社後、千尋は親友の葉山心菜とカフェで落ち合った。
心菜はコーヒーをくるくる掻き混ぜながら千尋の愚痴を聞き終えると、机をバンと叩いた。
「星盛グループ? それ、うちの従兄の会社じゃん!」
千尋は目を瞬く。
「従兄……?」
長い付き合いなのに、心菜が神崎雅臣の従妹だなんて知らなかった。ただ、どこぞのお嬢さまらしいとは思っていたけれど。
「そうそう、神崎雅臣」
心菜は軽く手を振って、いかにも気にしていないふうに言う。
「任せて。今すぐ電話する。ちゃんと会って話す機会くらい作らせるから」
千尋が止める間もなく、心菜は発信してしまった。
「お兄ちゃん? 友だちがいてさ、アンナっていうんだけど。そっちのプロモ案件、やりたいって。顔立てて一回会ってあげてよ」
電話の向こうで何か言われたのか、心菜が何度も頷く。
「うん、じゃあ今夜ね。ヨルクラブ。直接行かせる」
通話を切ると、心菜は千尋にOKのジェスチャーを見せた。
「よし、決まり! 夜8時、ヨルクラブの最上階、個室。ちょうど向こうも集まりがあるって。あんたは行って顔出せばいい」
千尋は頭皮がぞわりとした。
ヨルクラブに行って、神崎雅臣に会いに行け?
羊が自分から檻に入るようなものだ。
それでも、6桁の歩合を思うと、他に手段がない。
夜8時。
ヨルクラブ最上階。
個室の前で立ち止まった千尋の手のひらは、薄く汗ばんでいた。
重い木の扉を押し開ける。
薄暗い室内に、煙草と酒の匂いが淡く漂う。
大きな革張りのソファに座っているのは、ひとりだけ。
神崎雅臣は脚を組み、指先に火のついていない煙草を挟んだまま、伏せた視線でライターを弄っていた。
カチ、と火花の音だけが静けさにやけに響く。
開門の気配に、男が顔を上げる。
来訪者を認めた瞬間、雅臣は口元だけで笑い、冷ややかな弧を描いた。ライターをガラスのローテーブルへ放る。
「……しつこいな」
千尋は無理やり平静を作り、歩み寄る。修正した企画書をテーブルに置いた。
「神崎社長。本気で御社とお取引したくて伺いました。どうか――」
「取引?」
雅臣が遮り、嘲りを含んだ声で言う。
立ち上がった長身が、空気を圧する。
一歩、また一歩。千尋が下がるたび、距離は詰められた。
背中が冷たい壁に当たる。
逃げ場がない。
「俺の従妹まで使って、よくここまでやる」
雅臣は吐き捨てるように言った。
「俺のベッドに潜り込むために、随分と手間をかけたもんだな」
片腕を耳の横の壁に突き、身を屈めて覗き込んでくる。
清冽なウッド系の香りに、煙草の匂いが混じって押し寄せる。息が詰まりそうだった。
「違います」
千尋は顔を背け、熱を帯びた吐息を避ける。
「仕事は仕事です。私はただ、星盛グループと――」
「仕事、ねえ」
雅臣の指が顎を掴み、無理やり正面を向かせた。
力が強すぎて骨が軋む。
「嘘ばかりで、欲にまみれた女が。俺と取引できると思ってるのか?」
鼻で笑う。
「昨日は金、今日は会社。夜は心菜を使って会所まで追ってきた」
目が薄く細まる。
「そんなに俺に縋りたいのか?」
千尋は渾身の力で手を叩き落とした。
「神崎社長、自意識過剰です。私は――」
手の甲が赤くなっているのに、雅臣は気にも留めない。むしろ、さらに距離を詰め、薄い唇が耳朶に触れそうな位置まで寄せる。
「……そんなに金が要る。そんなに俺に付いてきたい」
低い声。しゃがれて、軽薄で、意地が悪い。
「ここ、ちょうど客をあしらえる女が足りないんだ」
囁くように言い、わざと間を置く。
「服を脱いで、そこに立て。一晩で200万。やるか?」
