第7章 離婚協議書
見物人の輪から、どよめきが上がった。
「脱げ! 見せろよ、ほかの女と何が違うんだ!」
「うわ、こんなにピンク……生まれつきってやつ?」
「最低……気持ち悪い!」
夏目千尋は必死に身を縮め、両手で襟元を死守しながら、唇をぎゅっと噛み締めた。
ここでやり返さなきゃ。
このままじゃ、これから先も「汚れた女」にされる。
……
道路の向かい側。
白石深尾はハンドルを握ったまま、その光景を見つめて躊躇いがちに言った。
「神崎社長、このまま殴らせたら……本当に取り返しがつきません」
神崎雅臣は、胸元を押さえながらも一滴の涙すら落とさない女を見据え、口元に嘲りの弧を描いた。
数秒後、車のドアが開く。
神崎雅臣は大股で車を降り、横断歩道も待たずに道路を渡った。
女が夏目千尋のスカートに手を掛けた、その瞬間。
手首が、凄まじい力でがっちり掴まれる。
「誰が余計な――」
振り返った女の言葉は、凍りついた。
仕立てのいいスーツを纏った男が、見下ろすだけで空気を圧し潰す。息が詰まるほどの威圧感。
女は目を見開き、続きの言葉を喉の奥へ飲み込んだ。
神崎雅臣はその手を放り投げるように払い、ハンカチで指先を拭う。声の温度はゼロだった。
「往来で暴れてるって自覚、あるか? 中で数日過ごしたいのか」
女の連れが、路肩に停まるゾロ目のマイバッハに気づき、顔色を変える。慌てて女の腕を引いた。
「やめとけ。あれ、相手にしちゃいけないやつだ」
女は神崎雅臣を警戒するように一度見てから、地面に倒れた夏目千尋をきつく睨みつけた。
「今日は運がよかったね! 次、私の旦那に色目使ってるの見たら、殺すから!」
三人は悪態を吐きながら車へ乗り込み、ポルシェはすぐに走り去った。
路肩に残ったのは、二人だけ。
夏目千尋は地面にへたり込み、髪はぐしゃぐしゃ、頬は腫れ上がり、白いシャツも乱暴に引き裂かれたように乱れていた。
俯いたまま肩を抱え、ぶるぶると震えが止まらない。
そこへ、ふわり。
ほのかな煙草の匂いがするスーツの上着が、頭からすっぽり被せられた。視界が布で塞がれ、身体ごと包み込まれる。
「乗れ」
頭上から落ちてきたのは男の声。
夏目千尋は一瞬固まり、上着を握り締めて顔を上げた。
神崎雅臣――。
唇を噛み、地面に手をついて立ち上がる。
右の膝は大きく擦り剥けていて、身体を伸ばした途端、痛みがびりっと走り、脚が震えた。
神崎雅臣は支えもしない。踵を返してマイバッハへ向かう。
夏目千尋は足を引きずりながら追い、後部座席のドアを開けて滑り込んだ。
車内は暖房が効いている。
夏目千尋は上着をきゅっと抱きしめ、乱れた髪を指で整えた。
「……助けてくれて、ありがとうございました。神崎社長」
神崎雅臣はレザーシートに凭れ、横目で彼女を値踏みするように眺める。
腫れた頬。切れた口元。これ以上ないほどの惨めさ。
彼は口角だけを引き、鼻で笑った。
「営業力、最悪だな。話にならない」
夏目千尋の手が止まる。
「……どういう意味ですか」
「本妻の素性も掴めてないくせに、往来で男に抱きつく」神崎雅臣の声は露骨に軽蔑に染まる。「殴られて当然だ」
夏目千尋は指を握り込み、爪が掌に食い込んだ。
「抱きついてません。あれはうちの部長です。酔ってたから、代行を呼ぶために支えて出ただけです」
「へえ」神崎雅臣は信じる気配すらない。「昨夜は刃物、今日は別の男にべったり。駆け引きの種類が豊富で結構だな」
「神崎雅臣!」
夏目千尋は勢いよく振り向き、鋭く睨みつけた。
「思い上がらないでください! みんながあなたみたいに汚い発想で生きてるわけじゃない!」
「汚い?」
神崎雅臣の目が冷える。身を乗り出し、距離を詰めた。
「提携が欲しくて、個室で俺に媚びた。今度は年増の男に乗り換えた。お前、その服……何人に脱いで見せる気だ」
――パァン。
乾いた音が車内に響いた。
白石深尾のアクセルを踏む足がびくりと震え、車が路上で一瞬だけ不自然に揺れる。
神崎雅臣は顔を横へ向けたまま動かない。頬に赤い指の跡がくっきり浮かび上がっていた。
次の瞬間、彼の瞳の底から、凶暴なものがせり上がる。
夏目千尋は痺れる手を引き戻し、胸が大きく上下していた。
「私が気持ち悪いと思うなら、最初から乗せなきゃよかったでしょう」
彼女はドアを乱暴に押し開け、男の匂いが染みついた上着を放り投げるように座席へ落として、そのまま降りた。
バン、とドアが叩きつけられる。
神崎雅臣はルームミラー越しに、足を引きずって遠ざかる背中を見つめ、痛む頬に指を当てた。
「出せ」
声は氷片みたいに冷たい。
翌朝。
星盛テクノロジー本社、1階ロビー。
夏目千尋は厚めのファンデーションで腫れと痣を必死に隠し、ヒールを鳴らして受付へ向かった。
「神崎社長にお取次ぎをお願いします」
受付が端末を確認し、営業スマイルのまま顔を上げる。
「申し訳ございません。ご予約がない場合、神崎社長にはお会いいただけません」
会社がこの案件の引き継ぎを認めなかった。
でなければ、二度と神崎雅臣に関わる気なんてなかったのに。
でも、金が要る。どうしても、この提携を成立させなきゃいけない。
「神崎社長にお伝えください。盛天広告の者です。昨日の提携案件の件で、5分だけ――」
「お客様」受付が遮る。「神崎社長のご指示で、盛天広告の方は一律、お取次ぎできません。お帰りくださいませ」
すぐに警備員が二人、夏目千尋の前に立って道を塞いだ。
夏目千尋はエレベーターの方を一度だけ見て、歯を食いしばる。
――無理か。
踵を返し、ロビーを出た。
……
夕方、夏目家の邸宅。
夏目千尋がドアを押し開けた瞬間、紙袋が風を切って顔に叩きつけられた。
袋の角が傷のある頬をかすめ、ひゅっと息を呑むほど痛い。
中身の書類が床に散らばった。
一番上にあった用紙には、はっきりと印字されている。
離婚協議書。
ソファに座る夏目博夫が、怒りに任せて湯呑みをテーブルへ叩きつけた。
「この年まで養ってやったのに、男ひとり繋ぎ止められんのか!」
夏目千尋は屈んで協議書を拾い上げる。
男側の署名欄にあるのは、力強く踊る字。
神崎雅臣。
――帰国して、真っ先に離婚。
しかも昨夜、車の中で彼に平手打ちを食らわせた女が、結婚して三年の妻だなんて、本人は夢にも思っていない。
夏目千尋は立ち上がり、協議書をテーブルに置いた。
「元々、愛なんてありません。離婚は時間の問題です」
「ふざけるな!」
夏目博夫は跳ね起き、指を突きつけて怒鳴り散らす。
「神崎家がどんな家か分かってるのか! 星盛テクノロジーがどれほどの企業か分かってるのか! どれだけ骨を折って、お前を神崎家へ嫁がせたと思ってる!」
夏目千尋は冷えた目で見返す。
「私には関係ない。私は望んで嫁いだわけじゃない」
「お前――」
夏目博夫は手を振り上げるが、何かを思い出したように、ぎりぎりで止めた。
そして、口元を歪めて笑う。顔つきが一変した。
「いいだろう。離婚するなら勝手にしろ。だがな……お前の母親が残したあれは、二度と手に入ると思うな」
