第8章 薬を盛られた水
夏目千尋の顔色が、さっと変わった。
「……どこに隠したの?」
「形見を取り戻したいか?」夏目博夫はソファにどかりと座り直し、脚を組む。
「いいだろう。ただしこの協議書にはサインするな。手段は問わん。神崎雅臣を繋ぎ止めろ――離婚は絶対にさせるな」
「……分かった」
夏目千尋は奥歯を噛みしめ、それでも、とうとう頷いた。
この世で母ほど大切な人はいない。母の遺したものは、何があっても自分の手に取り戻さなければならない。
夏目家の邸宅を出たあと、胸の奥がぽっかり空いた。
夏目博夫の圧は鉛みたいに心臓へ沈み、息が詰まる。――このままじゃ潰れる。
気を紛らわせようとラケットを掴み、近くのインドアのバドミントン施設へ向かった。
ところが、VIPコートのガラス扉を押し開けた瞬間、数人と鉢合わせになる。
先頭の男は黒いスポーツウェア姿。広い肩に細い腰。ジッパーは胸元まで無造作に下げられ、整った鎖骨が覗いていた。
神崎雅臣。
その頬には、まだうっすら赤い痕。昨日、車内で自分がつけたものだ。
男はタオルで汗を拭っていたが、彼女を認めると、動きがわずかに止まる。
夏目千尋はラケットの柄をぎゅっと握った。
――神崎雅臣を繋ぎ止めろ。離婚はさせるな。
歯を食いしばり、逃げずに歩み寄る。
まずは、話しかけないと。
「神崎社長、私――」
「雅臣!」
その声を遮るように、甘ったるい声が割り込んだ。
三上奈菜が、超ミニのプリーツスカートにスニーカーという若々しい格好で駆け寄り、神崎雅臣の腕にべったり絡みつく。
そして夏目千尋を頭のてっぺんからつま先まで値踏みし、警戒の色を一瞬だけ走らせた。
――目立ちすぎる。顔に傷があっても、冷たくて折れない雰囲気が妙に男を惹きつける。
それに、雅臣の反応が変だ。いつから他の女に、あんな感情の揺れを見せるようになった?
三上奈菜は首を傾げ、背後の護衛へ小さく目配せした。
夏目千尋が一歩踏み出した、その瞬間。
背中を、誰かに強く押された。
「っ……!」
足がもつれ、身体が前へ投げ出される。次の瞬間、彼女は男の胸へぶつかっていた。
ぶつかられた中年男が半歩退き、見下ろしながら脂ぎった大きな手で腰を抱く。
「危ないなぁ」
頭皮がぞわりと粟立つ。夏目千尋は勢いよく突き放し、二歩下がった。
「……すみません」
中年の富豪は手を擦り合わせ、油っぽい笑みをべったり貼り付ける。
「いいよいいよ。球打ちに来たの? 一人じゃつまんないだろ。お兄さんとちょっと相手してよ」
夏目千尋は顔を冷やした。
「結構です」
三上奈菜が神崎雅臣の隣で、口元を押さえてくすくす笑う。
「中村社長って、どこ行っても美女に飛び込まれますね」
「はははは!」
中村社長は大笑いし、視線を夏目千尋の胸元に這わせた。
そのとき。
神崎雅臣の、タオルで手を拭う動きが止まった。
冷えた目で夏目千尋を一瞥し、次に腹の出た中村社長へ視線を移す。
「中村社長の連れか?」
声の温度は、氷だった。
三上奈菜がすかさず口を挟む。
「さあ……よく分かりません。でも、ずいぶん親しそうでしたし。お仕事の話かも」
「雅臣、あっちで休みましょ」
そう言いながら、彼女は神崎雅臣の腕を引いて休憩スペースへ向かった。
背を向けた一瞬、三上奈菜の指先が弾ける。
白い錠剤が音もなく、テーブルに置かれたキャップの開いたミネラルウォーターへ落ちた――神崎雅臣のボトルへ。
この女のせいで、胸の奥に強い危機感が灯った。
雅臣を先に手に入れ、しかも周囲に知らしめる。そうすれば「神崎奥さん」の席は、自分のものになる。
……
神崎雅臣は長椅子に腰を下ろし、長い脚を組む。
昨夜は老けた男のことで正妻に街中で引っぱたかれていたくせに、今日は別の、もっと年上の男か。
自分が昨夜、一瞬でも同情したのが馬鹿らしい。
口元が歪む。吐き気を催すほどの嫌悪。
一方その頃。
中村社长は距離を詰め、夏目千尋の手首を掴もうとした。
「行こう。お兄さんがラケットの握り方、教えてあげる」
夏目千尋は身を捻って避けた。胃の奥がぐるりと掻き回される。
テーブルの上のミネラルウォーターを掴み、キャップをひねって二口、喉へ流し込む。むかつきを押し下げるために。
「中村社長、慎んでください」
面目を潰された中村社長が鼻を鳴らし、脂ぎった目で彼女を舐め回す。
「何が清純ぶってんだ。遊びに来てるなら値段言えよ」
「一晩で200万。どうだ?」
夏目千尋はボトルを置いた。そのとき初めて気づく。
――これ、神崎雅臣がさっきテーブルに置いたやつ。
でもキャップは今ひねったばかりだ。大丈夫、のはず。
夏目千尋は男の手を振り払った。
「他を当たってください。私は打ちに来ただけです」
「打つ? その様子じゃ無理だろ」中村社长が冷笑する。
その瞬間。
夏目千尋の身体の奥から、異常な熱がぶわっと湧き上がった。
「……っ」
頭がふらりと揺れる。
もう関わっていられない――そう思い、無理やり足を前へ運ぶ。
だが中村社長が腕を掴み、胸元へ乱暴に引き寄せた。
「待てよ! 一試合だけだ、ほら、この額!」
指で数字を示す。
夏目千尋は必死に抵抗した。だが体内の熱は増すばかりで、手足が妙に力を失っていく。
追い詰められ、咄嗟に遠くを指さした。
「離して! ――あれ、私の夫です!」
場内が一瞬で静まり返る。
中村社长が目を丸くし、振り向いた。
神崎雅臣は長椅子に座ったまま、手の中でライターを弄んでいる。
カチリ。火が上がって、すぐ消えた。
彼は立ち上がり、片手をポケットへ。余計な表情ひとつ寄越さない。
「俺は知らん。中村社長、好きにしろ」
そう吐き捨て、長い脚でシャワールームの方へ歩き去る。
中村社长の顔が怒りで歪む。掴む手に力が籠もった。
「このアマ、神崎社长の名で俺を脅す気か! 舐めてんじゃねえぞ!」
夏目千尋は引きずられ、膝を椅子に強く打ちつけた。
薬が、完全に回った。
視界が滲み、息が荒くなる。理性が、さらさらと削られていく。
舌先を噛み切り、痛みで意識を繋ぐ。
次の瞬間、夏目千尋は足を振り上げ、中村社长の太腿へ思いきり蹴りを叩き込んだ。
「ぐあっ!」
手が緩んだ隙に、夏目千尋は振り向いて走った。
前方は、神崎雅臣の専用休憩室。よろめきながら飛び込み、反手で鍵をかける。
外から、苛立ちきった拳の音。ドン、ドン、と扉が震える。
「開けろ! クズ、出てこい!」
夏目千尋は扉にもたれたまま、ずるずると床へ座り込んだ。
大きく息を吸って、吐く。スポーツウェアの襟元を引き裂くように緩める。
肌が、怖いほど熱い。
意識が遠のく、甘い眩暈。
そのとき――外で、鈍い破裂音がした。
ガンッ、と重い衝撃。鍵が悲鳴を上げる。
中村社长が何かで叩き割ったのだ。
次の瞬間、扉が蹴り開けられ、中村社长が横肉を揺らして滑り込んできた。反手で扉を閉める。
「逃げる? どこに逃げるってんだよ!」
男は飛びかかり、夏目千尋をカーペットに押さえつける。
肥った掌がそのまま服を引き裂こうとした。
「やめ――っ!」
夏目千尋は必死に暴れ、爪で男の頬をざくりと裂いた。
「どけ!」
「痛っ……!」
中村社长は顔をしかめ、次の瞬間、平手で夏目千尋の頬を叩きつけた。
パァン、と乾いた音。視界が白く弾ける。
「つけあがりやがって! 今日は絶対に抱いてやる!」
